東京北見会二十五周年を迎えて 02.08.26 |
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![]() 永田正紀 東京北見会の皆様方におかれましては、益々ご 健勝にてご活躍のこととお喜び申し上げますとと もに、日頃より、ふるさと北見の物産品の利用拡 大にご尽力をいただき、心から厚くお礼を申し上 げます。 また、本年は、東京北見会が発足されて25周年 の記念すべき年と伺い、長年にわたって、ふるさ と「北見」の発展のために、種々ご尽力をいただ いておりますことに、あらためまして、お礼を申 し上げる次第でございます。 さて、北見物産協会は、北見地方の生産品の紹 介や宣伝、並びに販路拡張と品質の向上を図り、 地場産業に寄与することを目的に、昭和29年12月 に発足して40有余年を数えますが、地域社会の変 化や厳しい経済情熱の中で、会員各社の経営状態 も厳しい状況が続いております。また、長引く景 気低迷によって観光の形態も変化し、土産品業界 にもその余波が及んでおります。 このような中にあって、地元での様々な取り組 みはもとより、行政や商工会議所、社団法人北海 道貿易物産振興会とも連携を深めながら、本州の 百貨店で繰り広げられる「北海道の物産と観光展」 に積極的に出店するなど、物産品の販路の拡大に 努める一方、毎年開催されております東京北見会 総会には、当協会事務局の商業観光課の職員が、 北見の名産品を持参して売店にご協力を頂いたり、 都心の郵便局で開催された当市の物産展において も、辰野会長様をはじめ多くの会員の皆様方にご 協力を賜り、この場をお借り致しまして厚くお礼 を申し上げるところでございます。 また、昨年から「みなと区民まつり」に東京北 見会としてご出店され、北見市の観光宣伝はもと より、特産品の販売にもご協力をいただいている と伺っており、当協会としても積極的に支援して 参りたいと考えております。 結びにあたり、会員の皆様方のご健勝と東京北 見会の益々のご隆盛、更には、今後ともふるさと 北見への変わらぬご支援とご協力、郷土物産品の 販路拡大へのご尽力を切にお願い申し上げて、ご 挨拶とさせていただきます。 ![]() |
![]() 秋沢信禎 北見を離れてから、今年の7月で12年になります。 私たち夫婦にとって、北見での3年間の生活はこ れまでの人生の最も輝ける1ページとなりました。 決して忘れられない、いや、忘れてはならない尊 い思い出です。 北見への転勤が決まり、東京を後にする時、あ んな寒い町に行くのかと思って「一泣き」し、行 つてみたら、町の人々の温かさに触れ、その人情 の厚さに「二泣き」し、そして、3年経ち、再び 転勤で東京へ戻る時、その別れの辛さに「三泣き」 した。これが「北見の三泣き」です。 「北見おはよう会」の皆さんはつつじ公園で毎 朝行われるラジオ体操の仲間です。体操の後、有 志でジョギングをしていましたが、その仲間で、 度々駅伝やマラソンにも参加していました。その 中でも、何と言っても圧巻は「サロマ湖100キ ロマラソン」です。死闘の後の涙での感動ゴール は私の1番の宝物です。現在もジョギングは続け ており、いい習慣が身についたと感謝しています。 「輝杉会」の皆さんは透明感溢れる水彩画の仲 間です。市主催の水野画講座がキッカケでした。 仲間の皆さんは、その後も実力を伸ばし、上野の 美術展に入選するまでになりました。上京される 度に、酒を酌み交わしながら、絵談義に花を咲か せます。ただ、絵の恩師である松田陽一郎先生が 1昨年9月、病気のため73歳の若さで、亡くな られたことが返す返すも残念でなりません。先生 がお元気なうちに、日本水彩展に初入選のご報告 が出来たことがせめてもの慰めです。 「北見山岳会」の皆さんとはよく山行のお供を しました。雪渓も紅葉もそれはそれは見事でした が、温泉の出る山小屋での酒盛りの楽しさは忘れ られない。大雪山には23回も登り、その大きさ美 しさを満喫しました。仲間が本州の山に登られた 時は、皆さんで我が家に泊まってくれ、旧交を暖 めました。 「北見ロータリークラブ」の皆さんには仕事の 面で大変お世話になりました。東京北見会には、 いつまでも北見の準市民であり続けたいとの気持 ちから、東京に戻ると同時に入会しましたが、お 蔭で、この総会では北見からゲストとして出席さ れるロータリークラブでお世話になった小森商工 会議所会頭、服部産婦人科医、水元オホーツクビ ール社長など懐かしい方々にお目にかかることが 出来ます。嬉しい限りです。 「町内会」の皆さんにはお花見、芋掘り、お祭 りなど様々な催しに誘っていただき、楽しさを存 分に味わいました。また、北海道の珍しい山の幸、 海の幸も沢山お裾分けいただき、その美味しさに 舌鼓を打ったことも忘れられません。今でも、季 節毎に北海道の幸が届きます。幸せが広がります。 これは「二泣き」目のほんの一部です。 神奈川県生まれの私ども夫婦にとって「二泣き」 目「三泣き」目の大泣きが出来たことはこの上な い大きな喜びびであります。北見の皆さん本当に有 難うございました。 私の「北見の三泣き」の話は、転勤直後、地元 紙のコラムに掲載されました。この切抜きを今で も肌身離さず持ち歩き、機会ある毎に見せぴらか しては北見を自慢しています。 |
![]() 黒田秀方 十年以上も前のことだったと思う。義妹夫婦が、 私の生まれた北見市をたずねたいと云う。夫はド イツ人でシュルカットと云って、めずらしい姓で あるようだ。結婚三十年、離婚の多いドイツでは 「現代の奇跡」との別名がついているほどだ。ミュ ンヘン在住。二年に1度は日本を訪れる。大の日 本びいきでくまなく歩いた九州から北海道、行き 先に困ったあげくである。 列車の旅で惑る日早朝北見駅から電話があり、 タクシー運転手に「めずらしいところへ」と聞く と「この街は何もないんでね」との返事。何か教 えてくれと云う。私は早速ピアソン館、ハッカ記 念館、信善光寺、文化センターを告げて電話を切 った。帰京後彼は「北見はすばらしかった、日本一 だ」と話して聞かせたことによると、朝の北見駅 に降り立つと、店々のガラスふき、水まき、ごみの 整理等、クリーン作戦のすばらしさに感動したと のこと。私はすっかり嬉しくなってしまいました。 そもそもは文化センターでは私の作品を見せたか ったし、信善光寺では私の父の教え子である加藤 住職に会ってもらい屯田兵人形を見て、ランマに 並ぶ父、彩弘の四枚の絵も見てもらいたかったか らでもある。 ドイツ人にほめられるということはたいへんな ことだとかねがね思っている。 時折私は夢をみる。 郊外に屯田兵何ができて開拓時のおもかげをただ よわせ、大きなホテルが並び観光バスが横付ける。 勿論屯田兵人形も飾られて、北の果ての大地に、 札幌に負けない開拓の歴史を見せる。玉ねぎとハ ッカはその副産物なのである。 |
![]() 田中正人 私は、東京の本社から平成3年8月に赴任し、 4年3カ月のあいだ北見で過ごさせて頂きました。 入社20年目にしての初めての転勤が「北見の地」 で、この時の生活は私のサラリーマン人生におい て忘れられないものであり、今でも「心の故郷」 となっております。 四国・愛媛県出身の私は、赴任当日、女満別空 港の上空から眼下に広がる壮大な田園風景に先ず 驚き、北海道にやって来たという感慨を胸一杯に 降り立ったことを覚えております。住まいを北2 条(信金の傍)に決め、会社事務所(駅前大通り) までは徒歩5〜6分という距離。東京では考えら れないこの通勤の至便さは、二度と経験できない でしょう。 また、何と言っても、この地の良さは空気が爽 やかで、空はぬけるようなオホーツクブルーそ して日照時間は長く、大地や海で採れる食べ物が 美味であること。更に、ここに住む人々は、「よそ 者を一様に受け入れてくれる」心の広さを持って いることでしょう。また時々、無意識のうちに 「よそ者の心」をなごませる「標準語?を使って くれることです。私は、これらの言葉を覚え努め て使うことで、随分、親近感を持って貰ったよう に思います。「あずましい/ちょす/だはんこく/ はんかくさい/いずい/なげる/かつける/おだ つ/おがる/なまら/ゆるくない/ぱくる/ごん ぽ掘る/げっぱ/かっちゃく/あめる/うるけ る/もちょこい/たくらんけ/etc」。 →北海道弁だべさ 単身赴任の私にとって、週末は北見の「ぱんち 祭り」を始めとする四季を通じての管内イベント ヘの出席で思うように東京へは帰れませんでした が、沢山の人々と知り合いになれ、大変楽しく充 実した4年間でした。 此処にあらためて、北見の地とこの地の人々に 対し心より感謝申し上げます。 「有り難う、北見の地、そして良き人々よ!」 |
![]() 亀井宏道 東京北見会が創立してからもう二十五年にもな るのかと思うと、月日の経つのは早いものだとつ くづく感じます。私も当時は四+代の前半、若者 の一人として、会に参加しておりました。故郷に は、まだ両親兄弟もおり年に何度か行く機会があ りました。身内に会える喜び楽しさは故郷への愛 着を感じさせる事でもあったのでしょう。夏休み に在京の子供達を連れてふるさと訪問の第一回団 長としての体験は想い出多い出来事でした。その 事が契機となり北見市役所商工観光課との関わり が出来たのだと思います。故郷北見に何かしらの プラスになる事が出来たらと思いつつ二十年以上 も過ぎてしまいました。最近北見へ行くたぴに感 ずる車は、女満別空港に降りる人達が大変多くな りました。リュックを背負ったハイキング姿の中 高年男女男女の目立つ車、でも残念ながら空港から北 見に向かう定期バスの乗客は少なく殆んど観光バ スで、どこかへ消えて行く様子を見て一抹の淋し さを感じます。日中の北見駅前中心部を見ても人 通りは少なく車の交通量だけが多いのも気になり ます。女満別空港に降りる観光客が一日だけでも 北見に寄ってくれたらどんなに活気が見られるか、 何か手立てがないものかと考えてもしがない事な のか。川東の植物園の展望台から見る市内の眺め はすばらしいと思います。街の中も綺麗だしすん だ夜空の美しいこと空気のさわやかなこと観光の 名所にならないものか。考えるだけ野暮なのかも 知れません。今年の総会の翌日から二日間港区民 まつりが、芝公園を中心に大々的に行われますが、 東京北見会も出店し、北見物産のタマネギ、ジャ ガイモ、タマネギスープ、ハッカ等を即売します。 少しでも故郷北見の宣伝になれば幸甚と若い人達 と頑張ります。時間があったら是非見に来て下さ い。応接お願いします。 |
![]() 小川 仁 名寄で生まれ一歳の時野付牛町(北見市)に両 親と引っ越し育った、今年六回目の年男の私が遠 い昔の思い出を現在の北見市と比較して書いてみ ます。 子供時代を過ごしたのは六条西六丁目、今の北見 市では考えられない田舎でした。ツルベで井戸か ら水を汲み、電気もなく毎日ランプのホヤ掃除を させられたのは子供心にもいやな手伝いでした、 子供の頃小さな川を石や土で堰き止め私たち子供 が手ぬぐいのフンドシ、又はパンツで泳いだ?り、 ウグイを追いかけたのも忘れられない思い出です。 近年両親は亡くなりましたが弟妹は北見で仕事 をしていますのでほば毎年北見に行く機会あり、 時には往時の場所を歩いてみても、今は寂びれた 住宅街になり、遊んだ川もなく、家の近くを走っ ていた石北線は地下にもぐり昔を振り返えると隔 世の感禁じ得ません。 私昭和三十六年に北見を離れましたが当時の人 口は四万人でした。この年私には忘れられないも のが駅前に出来たのです。駅前の大通り交差点に 北見市で最初の信号機が設置されたことです。現 在の市内は信号機が氾濫していますがとにかく珍 しかったのを覚えています。それから四十年、市 の人口は現在十一万二千人、道東の都市としては 唯一人口は増え続けてきたようです。しかしこれ も崩れつつあり、短大の閉鎖、少子化、大型店進 出のにぶり、転勤族の流出、入のバランスの崩れ 等々あるようで少し淋しいですね。 昔は市街地の賑わいが東の方にあったようですけ れど、近年大型量販売、レストラン、パチンコ店、 車のディーラー等が西の方に移り特に三十九号線 沿いに進出、商業地図はかなり変化したようです。 勿論中心街の皆さんは市も含めて活性化を図るた めいろいろな続行が考えられ客の足を戻すべく頑 張っておられるように開いています。美しい街、 私のふるさと北見市が商業、農業、文教、加えて 観光の分野を含め今後も更に発展することを祈っ て「昔の思い出」から少し脱線しましたが拙文を 終わります。 |
![]() 東京網走会相談役 成ケ澤宏之進 東京網走会の発足は御会の2年後、昭和五十三 年でした。以来、道東地域ふるさと会のよき兄と してお引立を頂き、感謝の言葉もありません。ま た、会の運営も私共の範、その組織運営は、常に 私共が見習っておりました。 ふるさと会の役割は、単なる親睦のみでなく、 在京の者の力によるふるさとへの支援にあるので すが、御会が中心で広くオホーツク地域の在京ふ るさと会に呼びかけ、一体となって故郷振興の支 援を行なう実績は、まことに尊く、私共も常に歩 調を揃え運動して参りました。 いま各地に市町村の合併統合が進んでおります。 ふるさとへ帰りましても、網走で活躍している数 割は北見の方。そして北見市内にも、随分多くの 網走っ子たちが移り住み、両市の生活、文化、経 済活動は一体の観がいたします。昔は北見(野付 牛)、網走は、ライバルの時代があり、学校でもそ の対抗のさまが、片や野獣(野付年中学)片や猛 獣(網走中学)と冗談に言われたほど。それもい まは語り革。ふるさとでも、北見、端野、美幌、 女満別、東藻琴、常呂、網走、その他を大統合し 広域新都市をつくる動きがでています。 内側のみに日が向けられる小さな気持ちでは取 り残される昨今の世の進歩。このような芽生えを 育てることも、私共ふるさと会の役割かも知れま せん。 とはいえ、私も創立以来昨年まで東京網走会の 副会長を努め、年老いてきましたので第一線を退 きました。しかしふるさとへの思いは変わらず、加 えて北見市の元市長寺前氏は私と同じ聯隊。若手 市議で活躍している鳥越氏は、東京網走会世話人 をして頂いた方など、北見との縁の深さは網走と 同様です。五条通り東五丁目で昭和二十四年まで 創業していました北海珪藻土工業の中澤様は私の 叔父。そして原料採堀は網走市能取で私の父など が主役。かつて行った両市にまたがる郷土の工業 推進など、私の心の中で両市の垣根はありません。 ![]() |
![]() 古賀恵美子 日本エアシステム(旧東亜国内航空)へ入社し、 30年が経った。今回の寄稿にあたり、北見を振り 返った時最初に心に浮かんだのが北見を後に上京 した時のことであった。 1971年(昭和46年)春に北見柏陽高校を卒 業し、”スチュワーデスになる″という大志を抱き、 雪解けの北見をあとに特急「はくつる」に乗リ24 時間かけて上京した。あの頃はスチュワーデスに なるにはどうしたらいいのかよく分からず、とり あえず試験の機会を待ちながら英語の勉強をする しかなかった。母校の先生たち(父も柏陽の教員 でした)はきっと”何を夢みたいなことを…”と 思っていたに違いない。楽天家の私は絶対にスチ ュワーデスになれるものと疑うことなく入社式験 を受け、よく分からないうちに合格通知を手にし ていた。母親は試験の時や入社式に着ていく服な どを手作りして送ってくれた。言葉には出さなく ともサポー卜していてくれたのは紛れもなく母親 であり、「どうした?とうした?」といつも母親に 状況を問いていたという父親は、まだ、18鹿の娘 を一人東京に出すという大英断をしてくれた最大 のサポーターだったのかもしれない。 フライトが始まり、月に1〜2回は女満別空港 に飛んだ。冬は流氷の流れをいち早く見ることが できる。着陸間際の網走潮の上空飛行はまるで北 欧の空港に降り立つようなロマンを感じる。空港 に着くとターミナルのフェンス付近をじーっと見 る。あっ!やっぱりいた!必ずといっていいほど 両親が来てくれていた。25分間の空港滞在時間の 中で、会える時間がほんの5分くらい取れた。母 の手作りお弁当や手作りお菓子を受け取り、また ブーンと飛んで帰ってしまうのだが、格別の元気 と栄養をもらえる僅かな瞬間であった。丁度母の 日に女満別のフライトがあり、母に直接カーネー ションを渡すことができた時、この仕串を選んで よかったと心から思った。 離陸すると遠くに摩周湖をみることも出来た。 美幌峠や屈斜路湖を過ぎると盆地に広い街並みが 見えてくる。北見だ。北見の街が見えたら私は必 ず「右手遠方は北見市でございます」とアナウン スをした。 1980年(昭和55年)5月21日に待望の東 京=女満別線の直行便が開設され、今まで里帰り に半日かかっていたのが、約3時間(YS−11と いうプロペラ機)で帰れるようになった。その5 年後の1985年(昭和60年)4月22日にはジェッ ト化によリ1時間40分と更に北見が近くなった。 東京北見会は私が北見を出て5年後に発足して いる。そして今から5年前に北見会との出会いが あった・・・。上京して30年が過ぎようとしてい る中、北見会という形で今再び北見と出逢うこと ができ、とても不思議な北見との緑を感じている。 |