ピアソン記念館(上) 02.08.26
ピアソン記念館は北見市の文化財として昭和四十三年に指定され、昨年三十周年を迎えましたが秋には北海道遺産として四千件もの応募の中から数少ない一つとして登録されました。ボランティア団体のピアソン会は、四年前ピアソン夫妻の事蹟の掘り起こしや保存、記念館の維持と市民へのアピールを目的として発足しました。その努力もあって登録されたことに感謝と喜びにたえません。この機会にあらためてピアソン夫妻や、私たちの運動を振り返ってみたいと思います。
ピアソン夫妻のことは多くの方がその名を聞いておられ、その住まいに行く道がピアソン通りと呼ばれていたことは良く知られていることです。ピアソンが最初に日本に来たのは、一八八八年(明治二十一年)明治学院大学の中学校の教師、牧師としてでした。それから四十年、米国に帰るまでその足跡は千葉、盛岡、函館、小樽、札幌、旭川、そうして野付牛へと日本の中心から北へ北へと、都会から田舎へ、さらに開拓地へと印されました。ピアソンが生まれたのは、ニューヨークにほど近いエリザベス市で少年期の中学時代には、後に米国大統領となったウイルソンと一〜二を競う秀才でした。彼は政治の道へ、ピアソンはプリンストン大学の神学部を卒業して、父と同じ宣教師の道を選びました。日本への来航は父から譲られた日本語で最古の聖書、ギュツラフ聖書によると言われています。勿論日本語は読めませんでしたが、米国人の開拓心や神に仕える使命観が彼を揺り動かしたに違いありません。ピアソンが最初に野付牛に釆たのは一九〇一年(明治三十四年)開拓が始まったばかりで汽車の便などなく、馬や馬車を乗り継いでの巡回伝導のためでした。その後二度にわたり巡回し、一九一〇年(明治四十三年)六月には、宗谷海峡を経て北見枝幸、雄武、湧別、遠軽、佐呂間、野付牛、美幌と長期間の伝導でした。一九一四年(大正三年)日本に於ける最終の伝導地として野付牛をえらび、夕陽が美しく柏の大樹がそぴえる丘に、友人の牧師で建築家でもあった、後にメンソレータムの社長となったウイリアム・ヴォリーズに設計を依頼して牧師館を建てました。このヴォリーズの設計図は、築後八十五年以上も過ぎた近年になって市の学芸員の努力により発見されました。瀟洒なピアソン邸は丘の上の洋館として、そこに住む夫妻を含め、好奇と憧憬の目で眺められていましたが、何時しかその目は親しみと信頼へと変わっていったのです。それは夫妻のあくなき精神と行動にうらずけられていました。日曜日ごとの礼拝に先ず集まったのは近所の子供達であり、やがてその親たちも邸を訪れるようになり、信者達が増えていったのです。日常生活の中でピアソンは裸足で遊ぶ子供達を心配して外出の折りには道に落ちている古釘、ガラスのかけらを拾い、風に倒された道端の木を片付けることを日課のようにしていました、私費で引いた電灯の配線を近所の人びとに快く利用させ、さらに邸の西隣に地方から出てきた野付牛中学の生徒のために私費で寄宿舎を建て無料で解放したり、町の課税について町長を訪ね「私への課税は低すぎませんか」と是正を申し出たこともあったようです。このような夫妻の無私の行動と精神は多くの町民に浸透していきました。ピアソンはその本務である宗教活動にあっても偉大でした,。来日以来彼は日本語の習得に並々ならぬ努力をかさね、十年を過ぎた頃には会話のみならず難解な言葉についても学者並みの域になっていたのです。そのことが生涯の大事業であった「略注旧新約全書」となって結実しました。難解な聖書に解りやすく日本語の注をつけたこの書は、B六判で二一七四ページになり、野付牛に来て三年目の大正五年に刊行されました。現在でもピアソン聖書として関係者に高く評価されています。この他にもかなりの著書がありましたが帰国に際し、その原稿の処分を教会の長老であり、野付牛中学の初代校長、佐藤猪之助さんに依頼しました、邸を訪ねた先生は書斎にうず高く、自分の背丈よりも高く積まれた原稲の量に驚嘆されたと言われています。
東京北見会が二十五周年を迎えられる。これまで長い年月故郷の発展のために営々と御努力頂いたことに心から深く感謝を申し上げ、同時に小さな団体ではありますが、自発する市民の賛同を得て、文化活動の一灯を灯し、在京の皆さんのご恩に報いたいと思います。
ピアソン記念館(上)を終わります。