ピアソン記念館(下) 03.08.26
ピアソン夫人のゲップさんはドイツ系のアメリカ人として誌文や論理にすぐれ、何よりも強烈な意志によって行動する女丈夫でしたが、弱者に対する深い愛情の傾注もきわだっていました。当時ハッカ景気にわく野付牛は商店やハッカ農家が繁盛する反面、僻地の農家や低所得層の困窮はいちじるしく、今日の社会では考えられない、子女の売買が行われたのです。そのような女性達の苦悩は大変なものであったようです。ゲップ夫人は同じ女性としてこの不都合に目をつむることが出来ず、逃げてくる女性を匿い、私費を使って子女を買い戻し親元へ送り返すことも再度ではなかったのです。こんなことから暴漢に襲われたこともありますが怯むことはありませんでした。このような時勢の中で一九一六年(大正五年)管内各所で遊郭設置運動が起こり、野付牛もその例外ではなかったのです。かつて旭川で坂本直寛と廃娼運動をした経験のある夫人は、率先して反対運動に立ち上がり、町内の夫人達と計って著名運動を進めました。自らは宮の権威が極めて高かった時代に俵孫一、北海道長官来町のおり、直接談判におよび一歩も引かなかったそうです。そうしてついには軽井沢で内務大臣、後藤新平を訪ね、廃娼と遊郭設置反対の陳情書を手渡しました。のちに網走、紋別には遊郭が出来ましたが野付牛には設置されることはありませんでした。
又ゲップ夫人が、伝導の旅をしていた頃、その旅について、後に「六月の北見路」に誌し野付牛盆地の美しさをつたえています。
ピアソンは晩年体調を崩され、本国を出るとき神に誓った四〇年の在日期間が終了しましたのでこの年、一九二八年(昭和三年)野付牛を発ちアメリカに帰国しました。
帰国後は夫人の故郷であるフィラデル・フィアに住みましたが、一九三七年(昭和十二年)夫人が召天(七十五才)、翌年遺著となる「日本における幸せな四〇年」を発刊しました。神学伝士ジョージ・ピアソンは一九三九年(昭和十四年)七十八才で天に召されました。
今年はピアソン記念館が建てられて八十八年になります。三〇年前文化財に指定の時大修理をされたとはいえ基本的には、戦後の使い勝手を良くするために内部の改修が相当にあり、ウォリースの設計からは大きく変わっていることです。文化財として正しい評価を受けるためには、更に維持の万全を図るためにも、大改修による原型復帰が急がれるのです。その運動を進めるためにピアソン会は、近々北海道にNPOの申請を出すとともに、会の体制と資金の健全化を進めて、市や道の財政出動を招来するよう努力したいと思います。
前号 (二十五号) に続き「ピアソン記念舘」(下)としてピアソン夫人、ゲップ女史の偉績の一部を記述しました。野付牛(北見) 開拓の支えであったジョージ・ピアソン夫妻の遺伝では、ほんの一ページにしか過ぎませんでしたが、(上)(下)でご紹介し、此の稿を閉じます。
※十四年十二月二十四日、NPO法人の認証を受けました。