No 51 大相撲の思い出    



技館のボックス席で観戦するしの輔、筆者、山田、綿貴の皆さん(左から)

そのころ子供の好きなもの「巨人、大鵬、卵やき」

 私事の思い出話は何か自慢話のようで気まずい気もしますが、思い出せばなかなか経験のできない昔の話をー。
 北海道はかって相撲王国でした。四人の横綱のうち三人までが北海道出身という時もあり、私の記憶では横綱だけでも吉葉山、北の富士、大鵬、北の湖、千代の富士、北勝海、大の国、初代若の花も事実上は北海道で、郷土の誇りに思っていたころもあったのです。
 中でも、今も三十二回の最多優勝記録を持つ不世出の大横綱大鵬の有史に残る断髭式に、北海道の大先輩大町北造さんの引き合わせで息子と共に出席し、華麗極まりない式典を拝見したのです。まだ国技館は蔵前にあった昭和四十六年ころのことです。最後の土俵入りは太刀持ち柏戸、露払い玉の海(間もなく死去)両横綱を従え、豪華絢爛たるものでした。その折、記念に頂いた大鵬と書かれたバスタオルは今も大事に孫が使っています。
 私の両親は富山出身と言うことで、東京富山県人会にも客員のような形で入会させられ、ゴルフ会などでお世話をしたりしていました。県人会の世話役で「世界の平和と友好」をモットーに、東京オリンピック以来すべてのオリンピックに羽織、袴(はかま)姿で日の丸を打ち振り″ガンバレ日本”を叫び続けるすごいおじさんをテレビでこ覧になり、記憶されている方もおるとあると思います。国際オリンピック応援団長山田直稔(なおとし)さんです。
 富山はかつて天下の名横綱「梅が谷」を生んだところですが、最近ではあまり強い力士が出ていません。大関が期待された「琴が梅」の応援に夢中だったある日、国技館のボックス席(四人用個室)で山田さん、綿貫民輔さん(自民党元幹事長、元建設大臣)、立川しの輔さん(落語家)と私の富山人でぜいたくな相撲見物をしました。打ち出しの後の小宴には琴が梅も駆け付け楽しい思い出となりました。
 琴が梅は今年引退し、年寄山(しころやま)を襲名され、後進の指導をしています。



No 52 上野の山その後1   



松方コレクションのひとつ、ロダンの「接吻」


ありがたや昔のままに美術館

 昨年暮れ「上野の山今昔」で、上野の山は建築ラッシュと伝えましたが、その後の様子をお知らせします。国立西洋美術館、東京芸大奏楽堂が竣工しました。国立博物館平成館、法隆寺館、資料館および芸大美術館はまだ工事中です。新たに都立文化会館の改修工事が始まりました。恐らく床や壁面が耐火材で音響的に問題のあったものが木製に変わることと考えます。
 完成した「西洋美術館」は展示室の面積が倍近くあり、企画展と松方コレクションを中心にした常設展がそれぞれ独立して開かれることになりました。松方コレクションのロダンの彫刻、ルナール、モネ、ゴッホ、ゴーガン、モリジャニ、ピカソなど印象派時代の名作をはじめ、博物館が開館以来購入した泰西名画を常時観ることができます。
しかし、ロダンの「考える人」「カレーの市民」「地獄の門」など、以前屋外の前庭に展示していた作品は未展示です。前にも申し上げましたが、西洋美術館は松方コレクションをフランスから返還してもらうため昭和三十三年に建設したもので、私のおじいさん先生に当たる世界最高の建築家ル・コルビジェの日本における弟子が実施設計を行った名建築です。
 しかし、当時の地震に対する考えは関東大地震でしたが、阪神大地震はそれをはるかにしのぐもので、それに耐える建築に改修したのです。名建築といわれた評価を残すため建物を一度持ち上げ、新しい基礎を築造してゴムのクッションを挟み自身の力が上に伝わることを防いだ、いわゆる免震構造にした大工事で建て替えました。
 より多い工費がかかったようですが、芸術建築を残す努力に対し建設時に多少関係した私もうれしく心より感謝するものです。お陰で建物の外観は元のままです。上野の山は大勢のホームレスが住み着き、異様な光景を呈しています。



No 53 上野の山その後2   



最高の音響を追求して完成した東京芸大の奏楽堂


古きもの新しきものも上野山

 前回、上野の山にホームレスが大勢住み着いて、異様な光景を呈していると書きましたが、東京が良いことばかりではないことの証でもあります。林の中は、ブルーのシートでできたテントがいっぱいです。何とかならないか、と思うのは私だけではないでしょう。
 今年も芸術の秋です。都立美術舘では二科展、日展、院展、一水会展など恒例の公募展が目白押しに開かれにぎわっています。都立美術館の先が東京芸術大学で、広い道を挟んで美術学部と音楽学部が向かい合っています。この辺まではあまり人が来ないので比較的静かで、かつての寛永寺がいかに広かったか、思い知らされます。
 音大脇の並びに昔の国立図書館の建物が、文化財として残されています。美術学部の美術館はいまだ工事中ですが、音楽部の素晴らしい「奏楽堂」は四月に完成し、学生の研修をはじめさまざまな演奏に利用されています。
 サントーリーホール同様、仕上げは床、壁、天井とほとんどが木材。最高の音響を得るため演奏の種類によって客席上、二百dもある天井全体が五bも上下するのです。オーケストラの時は低く下げ、ピアノや邦楽などの演奏の時は天井を上げる画期的な仕掛けになっています。
 パイプオルガンはまだ入っていませんが、舞台の広さはオペラも出来るほどで、真新しい木の香りが漂い、素晴らしさを倍加させています。客席数千百四十、ワンフロアは音響約に最も理想に近いものです。時々一般にも公開されます。
 上野の山には日本最初の西洋レストランで、結婚披露宴など宴会会場の草分けにもなった「上野精養軒」が、今も盛業を続けています。古いモダンボーイはここで結婚披露をすることが憧れでした。
 ここで「笑おう会」の笑栽「浪越徳治郎先生を讃える会」が十月二十日開かれたのは、六十年前、先生が結婚披露をされた思い出の会場ということで決めたわけです。グリルもあり、ちょっとシャレた食事をする時にはお勧めのところです。





No 54 東京湾横断道路    



新しい観光スポット「海ほたる」から木更津方面を望む

海ほたるこの世のものかガスの中

 首都圏の中で、千葉県は京浜地区と近い割には発展が遅れていますが、半島ということで東京と連絡する道路が半島の付け根、東京湾沿いに集中し、常に大渋滞を起こしているのが最大の原因です。
 千葉には成田空港、京葉工業地帯、それに百七個所のゴルフ場、九十九里をはじめ海水浴場などがあり、そこからおびただしい人びとが一度に集まって来るのですからかないません。休日など何時間も渋滞し、帰り着くのは真夜中になるのも珍しくないありさまでした。
 産業活動にも、もちろん影響し、何とか半島の中心部と京浜地区を直接結ぶ横断道が出来ないものかと、長年の夢でした。計画十五年、工事八年、総工費一兆五千億円ー。今世紀最後のビッグプロジェクト、東京湾アクアラインが今年春、遂に完成し、木更津と川崎がわずか十五分で結ばれるようになったのです。
 川崎から八・八`は海底トンネル、木更津側四・四`は海上の橋で、その接点が巨大な人口島「海ほたる」です。三階建ての大駐車場にバスなど大型車両百台、普通車七百台が収容でき、その上の四、五階に展望デッキ、和洋中華レストラン、カフェ、土産店などがあり、高速道としての役割はもちろん、新しい観光の名勝として偉容を誇っています。
 大変な人気で、日曜日などは駐車場に入れない車が二車線うちの一車線に集中し、入場待ちの車が長い列を作って並ぶありさまです。私が取材で訪ねた時はガスに煙って対岸は見えず、大海原に浮かぶおとぎの国へでも迷い込んだ感じでした。すぐ近くを何万トンという船が進んで行くのも壮観です。
 トンネルは直経十四b、世界最大のシールド掘進機で海ほたるの地点に海上基地を造り、双方から上下二本のトンネルを掘ったのです。その中間にヨットの帆を思わせる洒落た二本の換気塔がぽっかりと浮いています。東京湾はさすがにひろいなあというのが実感です。通行料金四千円はむべなるかなと、納得した次第です。





No 55 千葉外房めぐり    



俳界の聖地ともなっている仁右衛門橋

あるときは舟より高き宇波かな

 東京湾アクアラインを取材した折、久しぶりに外房(東京湾と反対の太平洋側の房総)を旅してきました。
 外房はこの海の後方にアメリカがあるのだと、維新の若者が眼前に広がる太平洋を見て、心を躍らせた所で、九十九里海岸をドライブし、打ち寄せる大波に、まさにこれが外房と思ったわけです。
 沖を暖流の黒潮が流れて、冬でも霜の降りることのない暖かい土地柄から、花の栽培が盛んで、春先には観光花畑に大勢の人々が押し掛け、新鮮な魚とともに魅力ある観光地になっています。
 安房小湊は日蓮上人の誕生された聖地です。前面の湾内では、深海魚の鯛が海面まで浮上して上人の誕生を祝ったそうで、今もそれを見せる遊覧船が出て、何百匹もの鯛の大群を見ることができます。日蓮が太平洋から昇る日輪を拝み、修行したという清澄寺は相当山奥にあり、半島の深さが知らされます。
 日経新聞に瀬戸内寂聴さんの「いよよ華やぐ」が連載されていますが、文中の「阿紗」のモデルは俳人として一家をなし、NHKなどで俳句の指導をされている鈴木真砂女さん。九十二歳でなお、かくしゃくとして銀座で小料理屋の魅力ある女将として切り盛りし、多くの排人がうかがっています。真砂女さんは房州鴨川の古い有名な旅館のお嬢さんに生まれ、波乱万丈の生きざまと豊かな教養と抱擁力の待ち主なのです。
 真砂女さんの故郷の近くで、太平洋の荒波に浮かび、二十数代続くただ一人の島主・平野仁右衛門さん所有の「仁石衛門島」があります。石橋山の戦いに破れ、安房に逃れた頼朝が身を隠し、再起を図った洞窟など歴史的にも知られ、風光明媚な名勝としても名高い所です。
 最近真砂女さん、小枝秀穂女さんの句碑が建ち、元からの富安風生、岡本、水原秋桜子、小出秋光さんらの句碑とともに俳界聖地の島となっています。観光案内のようになりましたが、東京周辺にはまだまだ良いところがあちこちにあります。
あるときは舟より高き宇波かな
今生のいまが倖せ衣被      真砂女
曼荼羅の海をはるかに髪洗う   秀穂女





No 56 大人気の北海道展  



特産品を求める買い物客でにぎわった大北海道展=高島屋新宿店

ふるさとの良いものうまいもの一堂に
 先月から今月にかけて東京の主なデパートでは、北海道展が相次いで催されています。名前はそれぞれ「大北海道展」「北海道フェスティバル」「北海道大収穫祭」などですが、催事屋さんの話によると、ほかの大九州展やみちのく展に比べ、ダントツの人気を得ているのが北海道展とうかがっています。
 今、東京のデパートで売り上げ一、二の高島屋新宿店では先日二十七日までの一週間、「大北海道展」が開かれました。百軒以上の店が山の幸、海の幸をはじめ、さまざまな魅力ある物産を取りそろえ、産地や品名の名札のもとに勢ぞろい。私が行ったのが日曜のせいもあって、大変にぎわっていました。
 最近は旧来の物産以外に、意欲的な新製品も見られ、北海道もガンバッテいるなあとうれしくなったものです。
 しかし、北見・オホーツク圏の出店は恒例のハッカ通商さんのハッカ飴、ハッカ豆、ハッカ油だけで、永田社長自らワイシャツの腕まくりをして、押し寄せるお客の対応に大奮闘していました。それ以外は北見産の男爵、玉葱のみで、いささか寂しい気持ちでした。
 先日、小田急デパートでは東京で大人気の「知床地鶏」、池袋東武デパートでマル元さんの「ぽん鱈」が北海道展で見られました。ハッカ飴や玉葱スープはどうしたら買えるか? とよく聞かれ、閉口していますが、それだけ人気がある証拠でしょう。
 北見・オホーツクの観光案内も兼ねたオホーツクのうまい物を斡旋する拠点が東京に出来たらいいのに・・・と、常々考えています。北見のハッカ製品、玉葱、じゃが芋はもちろん、おこっペ牛乳や飲むヨーグルト、知床地鶏、サロマの貝柱、常呂の鮭、特にけいじやときしらずなど、私の知らないものを含め地元特産品はたくさんあります。
 うまい物には目がなく、値段がいくら高くても手に入りさえすればいいというグルメ党が、東京にはまだたくさんいますので、オホーツク圏と東京を結ぶ、例えば「オホーツクの店」が出来たら、どんなに素晴らしいことかと、考えたりしています。オホーツクビールが飲めるところがあったなら・・・などと夢が膨らんできます。





No 57 北見の菊は日本一   



新宿御苑の菊花展。まだ蕾だった懸崖づくり花壇

秋深し北見の菊を夢に見る

 「北見菊まつり」が今年も大変賑わって幕を閉じたとうかがい、凌いことだなあと、菊作りに対する熱意、寒冷地向けにつくり上げた独特の技術に敬意を表するものです。まさに日本一を疑いません。
 実は東京の新宿御苑では、明治の中頃から皇室のご紋章でもある菊花を専門に栽培し、研究する菊園があり、その伝統が受け継がれて毎年十一月の菊花展が恒例になっています。今年も一日から五日まで特設小屋掛けの中で公開され、取材に行ってきました。
 残念ながら、十数年前にその見事さに驚いた面影が見られず、期待外れでした。最大の呼び物、千輪仕立ても今年はありません。懸崖もまだ蕾のままで、観賞に値するとは、言えません。
 優劣競う場面もなくなりました。天候が不順であったためか、宮内庁職員の誇りを失いサラリーマン化した職員(現在郡庁職員)のせいか、昼も夜も見守り、愛情を注いで手入れした結果初めて見事な花が見られる仕事には、向かないのでしょうか。
 北見の花が当然のように、まつりに合わせて満開にしていますが、並大抵でないことでしょう。首都圏での菊花展は日比谷公園など、どれも規模が小さく、日本三大稲荷の「笠間稲荷菊花展」は有名ですが、大輪仕立てが主で、規模も花の出来も、北見に比べて問題になりません。
 「二本松菊人形」はテレビなどの宣伝が物凄く、近くに多い温泉と組み合わせた旅行社のツアー企画により、大変なにぎわいのようです。しかし、花の見事さは北見の菊が一番です。これにオホーツク観光を組み合わせ、札鴨の雪まつりに匹敵するイベントに発展させたいものです。
 北見の菊作り名人の方々、それをサポー卜している人たちは自信を持って桁外れに立派な日本一の菊まつりを全国に宣伝し首都圏からも菊見のツアーが続々と行くようにと夢見るのです。実は私の父も、戦前から菊作りに熱心で、昭和二十五年ごろですか、菊花同好会展で優勝したとカップを誇らしげに、帰郷した私に見せていたのを思い出します。





No 58 秀山会の交遊      



秀山会の思い出のスナップ。右から筆者、藤山一郎さん、大町北造さん、筆者婦人

ふり返り良き人生の友を得し

 「東京だより」も、あと数回で終らせて頂くことになりました。
 今思えば、私の東京における世にいう有名人とのご交誼を頂くきっかけになったものに、二十三年前、新宿新都心の住友三角ビル五十階に大変おいしい中華料理店「秀山」が開店した折りに発足した「秀山会」があります。
 大町北造先輩が発案し、その命令で私が準備に奔走しました。毎月第一月曜日、何となく集まり、飲みかつ食べ、だれかが適当にスピーカーとなって話し、社会的にどんな偉い人も対等に、冗談も言える気さくな会ということでしたが、当時のキラ屋のごとき人たちが出席して下さるちょっと凄い会に発展しました。
 しかし、二十数年の歳月は大町先生をはじめ、多くの方々が鬼籍に入られ、今も会は存続し、相当の人たちが集まりますが、かつてのように人も羨む世界はなくなりました。
 主なメンバーを挙げますと、講談の先代室井馬琴、紀伊国屋書店田辺茂一、旅の戸塚文子、芸能界のデイック・ミネ、藤山一郎、トニー谷、ダン池田、漫画家おおば比呂司、サトウ・サンペイ、写頁家杉山吉良、並河萬里、浪越徳冶郎、団伊玖麿、玉川一郎、書道家町春草、文化勲章の彫金家帖佐美行、財界社圭三鬼陽之助、アナウンサー北出清五郎、安西愛子、古橋広之進、長野五輪日本選手団長八木祐四郎、アントン・ウイッキー(敬称略)ほか多士済々でした。
 特に藤山一郎さんはその世界では、周囲三bの範囲には近寄れない方だそうですが、秀山会ではそんな堅苦しいこともなく、私がゴルフの霞関CCの後輩メンバーであったこともあり、気楽な話相手になって頂きました。亡くなってからも、ご子息さんが継承メンバーになられ、プライベー卜の会でご一緒することもあります。堅苦しいことは一切ない方でした。
 卜二ー谷さんやデイック・ミネさんには特に思い出は強いものがあります。今も元気に出席される方も多いのですが、年代により楽しい基準も違い、いずれ消滅する会となるでしょう。人生の盛んな時の回顧でした。しかし、今も私は会長代行です。





No 59 東京の暮れと正月   



威勢のいい掛け声と色とりどりの熊手が並ぶ酉の市(新宿・花園神社)

何となくせわしいことよ師走かな

 もう師走ー。一年が過ぎる速さにただただ驚いている毎日です。東京の暮れと正月の行事を紹介します。
 十一月はまず、酉の市があって、十日に新宿の花岡神社に行ってみました。今年の酉の市は十日と二十日で、通称「お酉さん」と呼ばれ、暮れの行事の始まりです。浅草寺の大鳥神社、新宿の花園神社などで、熊手売りの屋台小屋が並び、客引きの景気の良い売り子の声が渦巻きます。
 私が北見で過ごした頃は熊手を見たことがなかったように思います。平竹の先を曲げ、扇状に広げて束ね、それに柄をつけたもので、落ち葉や紙屑を掻き集めるのに便利な掃除などの竹で出来た道具です。
 掻き集めるということが、お金を掻き集めるに通じ、縁起が良いと、おたふくの面、小判、笹、お札、鶴亀、松などで飾りつけた熊手を求め、来年の商売繁盛を願うのです。大きなものは一b近くあり、数万円の物から手の平に乗るくらいの小型サイズまでさきまです。大きなものが売れますと、手締めをして景気をつけるのです。
 また酉の日は日本橋本町の宝田恵比寿神社でべったら市」が立ちます。大根の麹漬けで寒くなる予告でもあります。酉の市のあとは暮れの「羽子板市」が浅草の観音様の境内で開かれます。何十軒もの店が自慢のデザインで作り、主に歌舞伎役者を模した押し絵が多く、役者の人気が分かるというものです。大きいものは一bもあり、何方円もします。しかし、最近は洋間の家が増えたためか、売れ行きは落ちているとのことです。
 正月には明治神宮、浅草観音様など初詣で以外に、腹ごなしとご利益求めて、最近は七福神詣でが盛んになってきました。浅草、新宿、谷中などが有名ですが、二−三時間の散歩に手頃な距離なのです。ふだん知らずにいたお寺や神社を巡るのも楽しいものです。
 暮れに町内鳶(とび)が家々を回り門松を立てて歩きます。葉のついた三bぐらいの竹とその根元に松を結んでいきます。マンションやビルには、本格的な門松を入り口の両側に立てます。新年がそこまで来ました。





No 60 奥多摩のこと      



緑と水のふるさと「奥多摩湖」


渓谷に悲しき歌の鐘の音 (鳥啼きての奥多摩寒山寺の鐘)
 東京都の中心は東に片寄って発展してきました。しかし、西部地区にはそれとほぼ同じくらいの面積を持つ大変に変化のある山岳地帯、奥多摩が広がり春は新緑、秋は紅葉と四季を通じハイキングや史跡などを訪れる都民の手ごろな観光地になっています。
 奥多摩はその名のごとく多摩川の上流一帯を指し、東京郡民の大切な飲料水を供給し羽田空港のところまで東京湾に注いでいます。戦前、東京の水不足を案じて昭和九年、多摩川の上流小河内のダム建設に着手し、完成にはさらに二十年を要しました。ダムの高さ百四十九b、貯水量一億九千万dで、水道専用のダムとしては世界一を誇り、その結果できた人工湖を「奥多摩湖」と呼んでいます。
 しかし、計画されたころより水の需要は飛躍約に増え、現在の水源は利根川水系が中心となり奥多摩湖は万が一に備えいつでも満々と水をたたえています。二
カ月問、郡民の水需要をまかなえる量です。ダム建設のため多摩川峡谷に資材運搬用に鉄道が建設され、今もJR青梅線として利用されています。また、奥多摩は戦時中疎開した吉川英治さんが「新平家物語」などを執筆した所でもあり、そのお屋敷が吉川英治記念舘となっています。それに日本画の川合玉堂美術舘も近くにあります。
 良質な水に恵まれた地酒の銘洒「沢の井」の蔵元では、酒造のかたわら良い水を利用して美味しい豆腐料理を、渓流を背景に食べさせています。古い修験道場で険しい御嶽山も今は八百bをケーブルカーで山頂近くまで行けます。御嶽神社にお参りし、宝物館では畠山重忠が奉納したという鎌倉時代作国宝の見事な兜を見ることができます。石灰岩でできた山が多くセメントのない時代、江戸城築造にこの石灰が利用されました。
 奥多摩で忘れてならないことに、小河内ダムの建設で百数十戸の人々が半強制的に故郷を追われ、ほとんどの人は満洲の開拓民となりました。後の悲劇の元になったのです。
 ”夕陽は赤し身は悲し”と東海林太郎の「湖底の故郷」はせめてもの抵抗を歌に託したものなのです。





No 61 北見よ大志を抱け   

  

2時間で東京-女満別を結ぶJASのMD90


北見よオホーツクよ大志を抱け

 東京だよりを愛読してくださった北見の皆さん、オホーツクの皆さん、今回をもって「東京だより」を一応終わりとさせていただきます。私事も交え失礼致しましたが、故郷の皆さんと東京に住む私どもとの交流に少しでも役立ち、その絆を強めることができたかと思っています。一方通行で読者の方々がどんな気持ちで読んでくださったか分からぬまま書いてきました。今回は最後ということで、私の日ごろ考えていることや愛する故郷への思いをつづらせていただきます。
 北海道は未曾有の危機にたたされています。胸が痛みます。北見もその例外ではないと思います。過日、堀知事にお目にかかったとき、北海道の稲作は大豊作との話に払は「北見オホーツク圏は事実上稲作は全滅の大凶作ですが」と申し上げたところ「私は平均のことを言っているのです」とのことでした。北海道は現府県行政制度では広過ぎるのです。東京から反対側の九州と四国を合わせた面積より広いのです。そこには十一の県があり、当然十一人の知事さんがいてそれぞれきめ細かい行政が行われているわけです。
 各県ごとに十二の空港があり、すべての空港が朝発ち夜返るナイトスティ空港です。もし″北見網走県”があったとしたら前記の堀知事の発言はないでしょう。
 ツアー式観光地図から外されている北見は独自のシステムによって滞在型観光を目指すのです。丘を幾重にも超えて広がる芋畑、東京の猟友会と提携して鳥や鹿の狩猟、渓流釣り、春の山菜採り、秋の茸狩り、サロマ湖の夕快け、カレイ、チカ釣り、そして豪快な軟アジ釣り、ばんば競馬、美味しい地ビールと食へ物、日本一の菊まつり、ハッカ飴、鹿肉フランス料理は最高級、それらをお世話するボランティアの組織。東京には北見オホーツクの物産や観光案内宣伝、文化交流の拠点を設置したいものです。北海道の人口十万人以上の都市で東京に事務所がないのは北見市のみです。
 最後になりました。愛読してくださった皆さんに感謝申し上げます。
The End