No 41
新水族館
新名所として人気を呼んでいる葛飾臨海水族館
マグロさんごめんよ寿司で頂いて
東京にはかって水族館は小規模のものしかありませんでした。海水を常に補給し、小さな水槽の中で海の魚を飼育することは、陸の動物を飼う以上に難しいことなのだろうと思います。海の近くということで「江ノ島水族館」が首都圏唯一のものでした。
その企画設立の中心となり、のちに長く館長を務められたのが、広崎芳次先生です。現在、野生水族繁殖センター代表に転じていますが、紋別市出身で北見中学(現北斗高校)を卒業された私どもの誇りであり、東京北見会の総会にも出席いただいています。十年程前に池袋に相当規模のサンシャイン水族館が開舘して人気を博していますが、これも海水の運搬、浄化、コンピューター制御などの技術が進歩したおかげでしょう。
そこに最近「都立葛西臨海公園」が東京の一番東、江戸川を挟んで千葉県のディズニーランドと向かい合うところにオープンしました。広大な敷地には潮干狩りもできる大きな渚があり、多くの野鳥が群れ、水上バスの発着場、ホテルなどさまざまな施設ができています。
その中心は水族園です。地上には入り口ホールのガラスのドームが見えるだけで、ほとんどのものは地下にありまます。水族館といわず水族園とは、海の魚を中心に渚の生物や鳥類が集められているからで、中でもメーンの見ものは海水二千二百d、深さ八bのドーナツ型水槽を一万行に大変なスピードで泳いでいるマグロの大群です。説明によると、マグロは他の魚と違いエラがなく、酸素を採るため口を開け、前に泳ぐことにより直接海水から酸素を採り入れています。生まれたときから死ぬまで泳ぎ続けなければならない宿命にあるので、ドーナツ型水槽で初めて飼育が可能になったのです。
驚いたことに私が行った日は大変暑い日でしたが、ペンギン烏が日照りの中、平気で外の岩場やプールを歩いたり、泳いだりしていたことです。他にもたくさん見学するものがあります。JR京葉線葛西臨海公園駅のすぐ前です。
No 42
人間国宝との交遊
札幌の「海陽亭」で楽しいひと時を過ごした筆者、梅幸さん、女将、菊五郎さん(前列右から)
淋しさのつのるこの頃老いの坂
私個人の話でどうかと迷いましたが、これも東京での一コマとお読みください。私の長い東京生活のなかで、実に多くの方に親しくしていただきました。中でも最も長く心から許し合えた年上の友人に、人間国宝で歌舞伎界の大御所だった天下の名優故尾上梅幸さんがおります。生涯忘れることのできない得がたく、楽しい思い出です。
梅幸さんは平成七年三月二十四日、七十八歳の華麗なその生涯を終えられました。歌舞伎界のみならず、国際親善の使節として民間外交に尽くされた功績は計り知れません。惜しみてもあまりあります。梅幸さんとは芝居以外の飲み歩き、カラオケ、ゴルフ、旅行など家族ぐるみの気の置けない心のご交誼をいただきました。(もちろんほとんどの舞台は拝見しましたが)。悔幸さんも劇団の座長としての孤独の中で、別の世界の私などとの付き合いに心の安らぎを得ていらしたのでしょう。
たくさんの思い出がありますが、その中で忘れられないのは北海道でのことです。昭和六十年七月に菊五郎劇団を中心に札幌と函館で各二日問の公演があり「辰野さんは北海道(出身)ですから、一日先に行くことにするので遊ぶ計画を立ててよ」と申され、札幌は任せてと前日の夕方ご子息菊五郎さんも合流して、海陽亭で札幌のきれいどころと一杯、その後薄野などをハシゴして夜が白みかけ、慌てて宿へ戻り、翌日のゴルフに備えたのです。
小樽の友人に頼み、名門銭函コースの大空のもと北の大地で親子で心行くまでポールを追い、楽しい一時を過こされました。パートナーには家内の叔父で、札幌医大副学長だった詩人(「虹と雪のバラード」の作詞者)で、札幌文人芝居で判官役をやったという医師河邨文一郎と弟が一緒でした。
クラブには本名で届けてあり、初めは梅幸さんたちと気付かずにいましたが、ハーフを終え発見されてサイン攻めに遭っていました。私を役者と間違える人はなかったのには少々がっかりしました。夜はまた薄野を飲み歩き「明日は河邨さんに代役を頼もう」などと梅幸さんから冗談も飛び出し、思い出は尽きません。この話は、いずれまた。
No 43
東京植物園
三千種類の熱帯植物が鑑賞できる都立夢の島熱帯植物園
ゴミの島今熱帯林の夢の島
東京にある主な植物園を紹介しましょう。その一つは東大理学部附属の通称「小石川植物園」。東京のど真ん中、文京区の五万坪の用地でさまざまな植物についての研究が行われています。入場料をとり、一般にも公開されています。都心の大きな緑の森で、古い歴史を秘めた所でもあります。
ここは今から三百年前、幕府のご用薬草園として開発され、多くの薬草を栽培して将軍家や各大名に配っていたのです。その時代の人々は、病気になってもなかなか医者にかかることのできないのが当たり前で、みすみす亡くなる人がたくさんいました。八代将軍吉宗は目安箱による町医者小川笙船(しょうせん)の意見を取り入れ、貧困者のための小石川養生所を開設、一流の藩医も参加して当時としては第一級の病院で、朋治維新で廃止されるまで続きました。
その施設跡に、今もきれいな水が湧く大きな井戸が残っています。薩摩芋を江戸地方での栽培することができないかと、青木昆陽が苦心研究の末に成功し、飢饉のたびにどれはどの人が救われたことか。終戦後、東京の焼け跡はまさに芋畑で私たちもその恩恵を受けたのです。
園内にはニュートンが万有引力の法則を発見した林檎の分け木、メンデルの法則を思い付く元になったメンデルの葡萄、百万年前の大昔に生い茂っていたというメタセコイヤが中国四川省で発見され、生きた化石といわれるメタセコイヤの林など珍しい植物を見ることができます。
一方、夢の島の熱帯植物園は高さが三十bもある三個のガラスの巨大なドームのなか、タイドウヤシをはじめ三千種類の熱帯植物を見ることができます。ふだん鉢植えの胡蝶蘭しか見ていない私が二bもある胡蝶蘭の原種に、何十個と大きな見事な花を付けているのに圧倒されました。この植物園の熱源は隣のゴミ焼却場の余熱を利用しているのです。
No 44
富士山のこと
山中湖別荘テラスから望む冬の富士山
月見草いや何でも似合う富士の山
今、私は浮世絵大系版画集広重の「名所江戸百景」を眺めています。ほとんどの絵の中に富士山が出てきます。そのころは排気ガスもなく、江戸の町中どこでも富士山は見られたようですが、今はビルなどに阻まれ、そのような訳にはまいりません。
しかし、ビルの屋上などから晴れていれば、おちょこ伏せた姿を見ることができます。直線距離にして百`です。東京の地名や道路に富士と付くものが方々にありましたが、地名整理で少なくなりました。靖国神社の裏側一帯は今も富士見町ですし、練馬から田無の方に抜ける数`の直線道路は正面に富士山が見えることから富士道路と呼んでいます。
秀麗な富士は江戸時代山岳信仰のあこがれの的で、心身を清め精進潔済のうえ講を組んで半月もかかる大変な登山だったようです。今は五合目までバスが走り、そこから登り始め七合目で仮眠してご来光を拝み、頂上を極め一気に下山する二日の行程です。富士に登ることは今でもあこがれの的です。
北見の画家で私の小学校の恩師、鷲見憲治先生は古希の記念に富士登山を決行され、高齢者登山番付に載っています。葛飾北斎の「富嶽百景」は方々から富士山を描いた傑作ですが、画家は最後に自分の富士を描くと言います。だれが見ても富士の美しさやすごさ、その気品ある姿には、内外の人を問わず感激、感嘆するのです。四季折々に千変万化、刻一刻と姿を変え、同じ姿は二度と見ることはありません。
私はその富士山に魅せられ、山中湖にマンションながら別荘を持っています。居間からも、お風呂からも正面に座して目の前に富士を眺めることができ、別荘を持つ大変さもしばし忘れさせてくれます。
山開きは七月一日でしたが、登山者の懐中電灯の光が黒富士の脇腹に列を作っているのが望めます。風のない晴れた朝には、湖に見事な逆さ富士を見ることができ、よくもこの素晴らしい山を与えてくださった造形の神に感謝せずにはいられません。
No 45
盛り場今昔
お年寄りの”新宿”とも呼ばれる巣鴨のとげ抜き地蔵尊通り
老人も負けるな清隆ここにあり(笑)
東京の盛り場はもともと浅草や銀座でした。しかし、時代と共に集まる人の目約などによって、今日、場所もスタイルも随分変わっています。
新宿歌舞伎町などは戦後にできた盛り場で、昭和二十年代後半に草ぼうぼうの原っぱに、ぼつぼつ映画館や飲食店ができ始め、あっという間に何軒かの劇場(コマ劇場、地球座など)が登場し、劇場に囲まれた広場(若者がよく集まり騒ぐ所)を中心に、瞬く間にクラブ、バー、怪しげなホテル、ストリップ劇場などができました。
初めは真面目?な大人の盛り場で、クラブリーではスマイリー小原のバンドで楽しかったものです。今は、中国、フィリピン、タイなどのマフィアの世界となり殺人、麻薬、売春などでよく報道される恐ろしい所です。
新宿はかつて閑静な住宅街でしたが、昭和五十年ごろから日曜に明治神宮前の広い欅(れもん)並木通が歩行者天国になって、奇抜な格好をした何十組もの若者が野外劇揚よろしく、唄や踊りを熱演しています。話によると、その中からスカウトされて有名タレントになった者もいるそうです。
七月から歩行者天国は禁止されましたので、その後どうなっていますでしょうか? その裏側に修学旅行生の憧れ「竹下通り」があり、狭い路地にアクセサリーやTシャツなど、そこだけにしかない買い物ができるのです。その他にも六本木や渋谷など盛り場は方々にありますが、詳しく紹介するには紙面がありません。
お年寄りの原宿「巣鴨高岩寺とげ抜き地蔵尊通り」も、四の日のにぎわいは原宿をしのぐほどです。このお地蔵尊は誠に霊験あらたかで、病気や痛いところを水をかけぬぐうと、たちどころに良くなるということで人気があります。以前は束子(たわし)でこすったのですが、すり減ってきたので布でふくようになりました。
地蔵尊通りは旧中仙道(裏に広い新中山道がある)で、八百bの商店街には、塩大福をはじめ懐かしいお菓子の店、書物やさまざまな食べ物屋が並び、通りの先は都営庚申塚停留所にいたります。まさに老人の盛り場です。
No 46
浪越徳次郎さんとの交遊
筆者の還暦を祝う会で乾杯の音頭を取って頂いた波越さん
先生の得意 ワアハアッハアー(笑いの笑栽)
編集者から世にいう著名人との私的なお付き合いも、読者には興味のあることでしょうとのアドバイスがあり、私ごとを交えて書くことにしました。
今画は「指圧の心は母心押せば命の泉湧く」の名句で知られる浪越徳治郎さんです。初期のテレビ指圧指導番組で全国的に有名になりましたが、独学で指圧治療を確立された努力家でもあるのです。浪越さんとは二十年ほど前、私が創立総会の議長を務め発会した「在京北海道人ユネスコ協会」や、同じころ私も世話人になって発足した新宿住友ビルの中華料理店「秀山」で月二回集まる「秀山会」などでお目にかかり、親しくしていただいてきました。
特に秀山会の帰りには、私の家内なども一緒して楽しい二次会が常番でした。浪越さんのお生まれは四国徳島ですが、物心つく前に両親とともに開拓者として胆振管内壮瞥町に入植されました。医者もない山奥のこと、お母さまが急に腹痛を起こされたとき、浪越少年は一心に患部をさすり指圧をしたところ、不思議に痛みがなくなったそうです。その後研究の結果、指圧法を修得し札幌で開業、多くの顧客を得て時には来道する東京の有名人の中でも評判となり、上京を勧められたのは時に二十代のことでした。
今日では、全世界にお弟子さんが活濯しています。浪越さんのお洒の飲み方は日本酒、ビール、ウイスキーのチャンボンで、これが山番美味しいのだと申します。私どもはこれも三色混合と冷やかしますか、いまだ二日酔いを経験したことがないとのことです。
明治三十八年生まれ、現在九十三歳。足が多少不自由になられまたが、お洒は毎日飲み歩き、得意の「日本海海戦」の一席の後、大オンチの軍艦マーチは酒席をいやがうえにも盛り上げます。私も先生直伝の自己指圧(水落ちを十回、右腹上部を十回手のひらで押さえる)を毎朝施法していますが、お陰で体調が良いようです。近く「笑いの会」の笑栽に感謝の会を催すことになり、私も発起人の末席を汚すことになっています。
No 47
俳聖芭蕉への思い
芭蕉稲荷神社として保存されている芭蕉庵跡
我も死して碑に辺(ほとり)せん枯尾花 蕪村
北見では俳句も盛んなことを本紙俳壇などでうかがっています。私は俳句を一人前に論ずることなど到底できませんが、芭蕉、頼村、西行、宗祇などの史跡を訪ねたりして、それなりに楽しんでいます。
二十九歳で江戸に出た牢人の芭蕉が、生活のため水道人夫をして働いたという関口町は今も残っています。私の事務所の近くです。その後、支援者により深川の小名木川と大川の合流点、万年橋のたもとにあった鯉の生けすの番小屋をいただいて住居とし、そこに門人が芭蕉の木を植え、これが繁って芭蕉庵と呼んだことから、名を桃青から芭蕉に改めたわけです。今も芭蕉稲荷として近所の人々が大切にお守りしています。
芭蕉は数回江戸に出入りしますが、舟で門人をはじめいろいろな人が訪ねるのに便利ということからでしょうか、その後もこの近くに住まったようです。二百bほど離れた所に芭蕉記念館があり、芭蕉に関する資料などを展示しています。「奥の細道」に出掛ける時まで住んでいた住居跡です。東京では、芭蕉が奥の細道の旅に舟でたち、千住で上陸したのは右岸か左岸かという一見不毛の論争があります。
古今月の名勝と、多くの文人の憧れであった更級姥捨山の月を見るため、岐阜から中仙道を三日で更級の長楽寺に着き、名月を心行くまでめでたのが「更級紀行」になるのです。その時の句が「俤や姨ひとりなく月の友」。
私はこの句の意味と発想がどうしても分からず、俳句の先生や芭蕉記念館にも問い合わせましたが、納得のいく答えはいただけけませんでした。その後、世阿弥の謡曲「姨捨」によったことを知り、芭蕉が古今内外を問わず、いかに広い知識の上によって発句されていたかを知り、改めて尊敬の念に打たれたものです。
三日目は松本から六十`三つの峠を越えて来たその健脚には驚きです。更級紀行にことさら関心があるのは、空気の澄んだここ更級に私も魅せられ、三十五年前に別荘を持って名月の美しさの虜(とりこ)になっているからです。
芭蕉を慕い尊敬した蕪村が京都金福寺の自らの墓に詠んだ句−<
我も死して碑に辺(ほとり)せん枯尾花
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No 48
踊りあれこれ
東京・高円寺でも繰り広げられている「阿波踊り」
北も南もアホーばかり(楽しきかな)
近年わが故郷、北海道では「よさこいソーラン踊り」が大変盛んになって、各団体ごとに振り付け、衣装、音曲に工夫を凝らし競っているとうかがいます。それにしても、高知のヨサコイと北海道のソーランが一体になるなど想像を超えた快挙で、文句なしの拍手喝采です。
人間はもともと仲間が集まり、音楽や唄に合わせて踊ることが本能かも知れません。四国と北海道が一緒になったところが実に愉快で、面白いことと思います。その踊りは勇壮というか、なかなかきつい踊りに見えますが、そこが北海道の良いところと思います。
東京は全国から流れてきた人の集まりで、さまざまな郷土文化が移入され根付いています。全国的に有名な踊りとして代表されるものに、徳島の「阿波踊り」、岐阜郡上八幡の「郡上踊り」、何とも物悲しく、鼓弓の音に合わせて踊る越中八尾の「風の盆唄」などがありますが、東京に住むようになっても「おらが国さ」を忘れがたく、その誇りとする踊りを東京に実現させたのが高円寺商店街の東京版「阿波踊り」です。
本場よりちょうど一月遅れの八月に繰り広げられ、既に四十年にもなり、参加者の蓮は年々増え続け、本揚をしのぐ盛大な踊りになりました。例の「踊るアホーに見るアホーどうせアホーなら踊らにゃソンソン」と、男は足袋、素足、女は下駄で何十蓮も練り歩くのです。まさに壮観というほかありません。普段下駄など履きなれないのに鼻緒ずれなど大丈夫かと余計な心配もします。
浅草ではリオのカーニバルを移入してサンバの踊りです。どこまでもセクシーで挑発的な衣装と振り付けで、まさに浅草に打ってつけ、集まった見物人を魅了させます。そのうちによさこいソーランが在京北海道の若者の蓮も一緒になって、歩行者天国の銀座を練り歩く日も近いのではないかと空想して楽しんでいます。
No 49
江戸の変遷と通運
高速道路が走り、すっかり様変わりした日本橋
なにしよう命の堀は今もなお
今から約四百年前、徳川家康は秀吉の命により北条氏の旧領関八州に封じられ、居城の地を江戸に定め、壮大な城郭と城下町建設を始めました。同時に封建制度の基本となる士農工商の身分、各大名を支配するための参勤交代の制定、武士、寺社、町人の生活等を細かく定めました。それに従った都市計画の基本が仕上がり、家康、秀忠、家光の三代、六十年の歳月をかけ、ほぼ現在の東京の原型となる都市ができました。
主要な交通は水運で、そのため両岸を立派な石垣積みの水路と所々に舟着き場を設け、延長は数十`におよび、全国から物資が運ばれ集積されたのです。
私は建築家という仕事柄、地下の掘り下げなどの時に五十a角もある大きな角材を基礎に石を積み上げた堀壁の跡や石をくり抜いたり、厚い板を箱状に組んだもの、竹の節を抜いた水道管やそれらにつなげた水を汲み上げる井戸などの水道施設の跡に巡り合います。
これらインフラを完備させたことにより、当時世界最大、ケタ外れの人口百万都市の生活を支えることができたのです。その証拠を目の当たりにして驚くと同時に、これらを作り上げた先人を誇りに思うわけです。トラック輸送が主流となる二、三十年前までは三井、三菱などの倉庫群は堀に面して並び、持ち出しクレーンがはしけで運ばれてきた荷物を吊り上げている光景をよく見かけ、何百年の後まで堀はそのまま利用されてきたのです。
ところが車社会となり、この堀を埋め立て、またはその上に高架橋を築造し高速道路用に利用され、風情のあった昔の姿を今は見ることはできません。全国の道路基点となっている日本橋の中心に立つ道路元標も、高速道路によってふさがれた野暮な感じになっています。
しかし、この堀がなければ今日の東京は麻痺状態になっていたことでしょう。そのため数寄屋橋、鍛冶橋、呉服橋、三原橋などが東京の近代化の犠牲の象徴として橋の名前だけが残っています。
No 50
盛況だった大英国展
大英国展で人気を集めた世界初の蒸気機関車「ロケット号」
栄光の残り香よ凄きかな
東京宵際フォーラムで大英国展が八月いっぱい開かれていました東京国際フォーラムは丸の内の東京都庁舎が新宿に移転した跡地約一方坪に、総合文化施設として五千人収容の劇場をはじめ、大小四ホール、千五百坪のワンフロアの展示場、大小三十四の会議室、三室のレセプションルームがあり、それらに付属した和食の「吉祥」や中華、洋食など超高級から大衆までの食事処、その他託児所などあらゆるものが入っています。総工費二千五百億円、まさに世界約な総合文化施設と言えましょう。
アメリカ人ヴィニオリさんの設計で、当時日本は閉鎖的だとの非難をかわすために外国人に設計が決まったようですが、私は建築家としてとても好きになれる建物ではありません。しかし規模と言い、豪華さと言いケタ外れのものには違いありません。まさにバブルの落とし子です。
その地下千五百坪の展示場に八月末まで「大英国展」が開かれ、小・中学生の宿題にもってこいということでしょうか、なかなかにぎわっていました。入口正面に世界のジェットエンジンの半分近くを占めるロールスロイスのジェット機用エンジンが飾られていました。その羽根一枚で百dの推力があるそうで、それが二十杖ほどで構成されていました。
その他のものは産業革命以後、四百年にわたり技術的にも世界の最先端をいき、七つの海を支配していた過去の栄光の展示です。歴史的には大変価値があるものには違いありません。スティーブンソンの最初の蒸気機関車「ロケット号」の実物、連続製鋼の転炉、それを利用して大砲などの大量生産設備、千二百bの鉄橋、軍艦(日露戦争で活躍した軍檻「松島」)、船舶、T型フォードと同時代の百年も前に大量生産された自動車「オースチン」はなかなかスマー卜で感心しました。
わが国も追い付け、追い越せの先に世界に取り残されることのないようにと、考えさせられる展示会でもありました。