No 31
横浜のロマン1
横浜港・山下ふ頭で休息する「オリアナ号」。左後方はベイブリッジ
大桟橋7万トンが横付けに
三月二日、春めいてきた横浜港に世界を周遊している客船五隻のうち、三隻が一度に入港したのです。世界の貴婦人と呼ばれ、世界最大の「クィーンエリザベス二世号」(七〇、三二七d、全長三百五十b、十五階)と同じく英国籍の「オリアナ号」(六九、一五三d)、それに最新の設備を誇る日本国籍の「飛鳥」(二八、七一七d)。その偉容と優美な貴婦人にふさわしい姿を見せ、横浜市挙げての歓迎行事の中、またとない機会と四十万の見物人で山下公園、「みなとみらい21」界隈をはじめ、横浜の港も、街も盛り上がり大変なにぎわいでした。
なにしろ世界一周には三カ月もかかり、その間お客はもちろん、船員から下働きまで二千人もの人が生活し、陸では味わえないショーや、正装した紳士、淑女による夜会パーティーなどいろいろな催しが夜ごと繰り広げられ、外界とのわずらわしいことも一切なく、十数箇所の港に寄港して観光やショッピングを楽しむのです。浮世離れした素晴らしい世界を体験した人は、何度もまた乗りたいと考えるものだそうです。
以前に東京港の荷物の扱い量では横浜と同じくらいと書きましたが、こと客船となると伝統のある横浜にはかないません。今から百五十年前に開港され、外国居留民の住む街ができ、西洋の珍しい文物が入って人々を驚かすとともに、その優れた技術を学び何か進歩的なロマンと魅力ある街ができたのです。その名残りとでも言える雰囲気が今でもたくさん残っています。今日では東京と銑道や高速道路が何本も開通してその境もなく、最近できた街は特に変わったような姿も見られないところが多いのです。
しかし、港を中心に横浜にしかない良き時代の名残がひそむ元町通り商店街、港の見える丘公園、外人墓地、みなとみらい21、三渓園、中華街、山下公園などはいまだロマンがひそんでいます。そんな横浜を次回は案内したいと思います。
No 32
横浜のロマン2
ランドマークタワー(左)などがそびえる「みなとみらい21」地区
あれもこれも何処がうまいか中華街
横浜はその生い立ちから何かロマン感じる街です。ご存知のように今から百五十年前、田んぼと何軒かの漁師が住む寒村であったところにアメリカをはじめ、他の国々と通商条約が結ばれ、鎖国を解いて開港され、外国人のために居留地ができました。
そこでは武器をはじめ、いろいろな商品の取引が行われ、文明開花の発祥地となりました。さまざまな人が移住してきて、当時としては破天荒な街ができたのです。
今の大桟橋の所を基点に一番館、二番館…と区画され、その面影は現在も残っています。その一番館跡に昭和三十一年、生糸の取引所とホテル不足を解消のために計画され、私の勤めていた板倉準三事務所が懸賞設計に当選して建築した「シルクセンター」は、今も大桟橋の入り口に健在です。
私が独立してから日本初のアメリカ近代医学による(戦前はドイツ医学)当時としては最新最大の横浜市立大医学部付属病院(千床)とその関連施設の設計を依頼され、それは何年もかかる大工事で横浜には常時行っていたものです。私が四十歳のころのことです。
敗戦の時、厚木に降り立ったマッカーサーが宿舎とした、港に面するニューグランドホテルのバーが、疲れたときの私にとって一番の憩いの場所でした。最近新館もできましたが、そのバーは元のままです。
横浜を語るには第一に開港以来、華僑の人によって創られた南京街(中華街)です。それぞれに違った昧を誇り、大小百数十軒もの中華料理店が集まっています。また元町通り商店街は開港当時からの街で、他にないオリジナルでモダンな品物、珍しいレストラン、心のわくわくする憧れの商店街を形成し、その上の丘に大人の社交場・レストランシアター「クリフサイド」は今も健在です。
美空ひばりさんの「港町十三番地」のマドロスさんのたまり場も港近辺にはたくさんあり、横浜の街には今も何かが潜んでいそうな所です。
No 33
横浜のロマン3
外人墓地から市街地、横浜港を望む
古きもの新しきものも横浜ロマン
横浜港の裏山地区、山手に「港が見える丘公園」が造られ、そこには鞍馬天狗の大彿次郎記念館もあります。その隣が「外人基地」です。墓地からは街を越して港が見え、春は桜、ツツジやバラが咲き乱れ、開港以来日本の文明開花に寄与した三千余の人たちがいろいろな墓標の下で眠っています。いま流行の公園墓地の見本と言えるでしょう。遊牧民族の末裔のせいでしょうか、遺骨にしても故郷に帰るとの考えはなく、亡くなったところが墓ということです。
庭園の稿でも書きましたが、本牧の「三渓園」は開国以来生糸の貿易などで天下の大富豪となり、書道家として美術品の収集家として、芸術に対しても大変な理解者であった原富太郎(雅号三渓)が精根を傾け、三つの渓谷をまたぎ直接海に面した(いま庭園の先は埋め立てられている)五万坪の広大な敷地に、日本庭園を造成しました。紀州徳川の別邸「臨春館」をはじめ、国宝重文に指定された古建築十三棟が園内に移築され、文化材の保護に尽くし、それが見事な景色になっています。
三渓は関東大震災のあと、新生横浜の建設に先頭に立ち身命を賭して働き、現在の横浜の基礎を造られたのです。横浜港の中心に明治以来三菱重工造船工場がありました。その移転により桜木町や横浜駅の近くに広大な敷地ができ、そこに「みなとみらい21」が計画され、者々と建設が進められています。
日本一高い「ランドマークタワー」六十九階、二百九十六b)の展望台からは、関東一円が三百六十度の大パノラマで楽しめます。隣には日本最初の石造りのドックに、かつて「太平洋の白鳥」と呼ばれた優美な帆船日本丸が繋留されています。白い帆を張ったような「コンチネンタルホテル」「国立国際会議場」「横浜美術館」などさまざまな施設が、港をまたぐペイブリッジを背景に、この界隈は日々変わっています。
No 34
フランス年と東京みなと祭り
レインボーブリッジを背景にそびえ立つ「自由の女神」
世が変わり自由の女神お台場に
今、東京の臨海副都心を中心に「日本におけるフランス年」の行事のうち、フランス祭りが開かれています。広大な東京国際展示場「東京ビッグサイト」を会場に、五月二十三、二十四日には「51東京みなとまつり」が併せて催され、大変な人出でにぎわいました。
「日本におけるフランス年」に対しフランスは国を挙げて対応し、その最初がフランスの宝、セーヌ川の中州にあった「自由の女神像」をレンポーブリッジを背景にした「お台場海浜公園」に移築、建立し、そのテープカットをシラク大統領自ら行ったことからも、フランスがいかに力を入れているかがうかがえます。
シラク大統領はもう四十回も来日されたという親日家で、過日NHKでのインタビューでは「俳句こそ精神文化・文学の極みであり、特に「奥の細道」には大変興味と関心を覚え、芭蕉を心から尊敬している」と語り、その本領を発揮され、私もピックリした次第です。
ビッグサイトのフランス祭りでは、衣食住すべてにおいて普段着のフランスが楽しめることをモットーに企画されていますが、フランスから特別親善大使として俳優ジャン・レノが参加され、一段とにぎやかな会場となりました。これから一年、フランス年にちなんださまざまな催しが東京のみならず、日本全国で繰り広げられることでしょう。
東京みなと祭りは五十一回となり各埠頭ではそれぞれに楽しいイベントが催されます。晴海会場はソーラーカー試乗会、熱気球から見る東京港、お台場海浜公園では東京ドラゴンボート大会など盛りだくさんのイベントです。そのなかでも圧巻は現存する帆船が集合、複製された勝海舟の威臨丸、海星、シナーラ、練習船海王丸が白い帆をいっぱいに張った帆船パレードです。現代離れした壮快さです。
No 35
新旧国立劇場とオペラシティー
超一流のコンサートホール・タケムツメモリアル=東京オペラシティ
すごいものができたなあ唯唯感心
東京にはたくさんホールと言われるものがあります。しかし、そのほとんどが都立か区立です。国立では伝統古典芸能の保護育成を目的として三宅坂に三十年前に開館された国立劇場、二十年前に建設された千駄ヶ谷の国立能楽堂、それに今年オープンした新宿初台の新国立劇場です。
旧国立劇場が計画されたとき、音楽家や新劇の人たちが国立の音楽ホールや新劇などの劇場をーと猛烈な運動を展開していたものが、ようやく実現したということです。新国立劇場、それと同一敷地に国の外郭団体による東京オペラシティが建設されて、一体の施設と考えられるのですが、それこそ役人の天下り先を確保するためかと疑いたくなるほどです。まさにバブルの最中に計画され、総額二千億円、現在考えられる最高の劇揚、ホールと言えましょう。
新国立劇場にはオペラもできるパックの広さを持った大劇場(二千席)、中劇揚(千席)、五百席の小劇場からなります。舞台装置は現代電子工学の粋を駆使し、客席もさまざまな形に自動式で自由に変えることができ、音響的にも素晴らしく、おそらく世界的にも第一級のものでしょう。
オペラシティの方は何次かにわたって工事が進められ「コンサートホール・タケミツメモリアル」は前にサントリーホールのときにも書いたように床、壁、天井はすべて燃えない木材により、その音響効果のほどは世界的にも超一流と言えるものでしよう。それに四十九階の東京オペラシティタワーが完成し、アートミュージアムは工事中です。
過日、紹介用に写真を撮りに行きましたが、あまりにも規模が大きくて満足な写真が撮れないありさまです。新南立劇場は京王線で新宿の次の初台駅と直接つながっています。
No 36
旧国立劇場と友人K氏
日本古来の伝統芸能が継承されている旧国立劇場
受け継いだ芸の凄さや松みどり
国立劇揚の紹介が新旧逆になりました。新国立劇場の豪華さに比べると、旧国立劇堤は質素との感じを受けますが、約三十年前の昭和四十一年十一月一日に国民の大きな期待のもと開場されました。客席の数は大劇場千六百十六席、小劇場は五百九十四席、その他古典芸能後継者の養成機関やそれらの稽古場などが組み込まれ、当時としては大変立派なものでした。
また皇居のお濠に面し、絶景の場所に建てられ、日本古来の伝統芸能文化の継承保護育成にふさわしい環境といえます。大劇場は歌舞伎を中心に新派など月単位の出し物の間を縫い、邦楽や舞踊家元のおさらい発表会などに盛んに利用されています。歌舞伎などは一日一回の公演ですので、役者さんなど関係者は体が楽と好評です。これも国立という家賃や税金など基本経費がかからない特権からで、入場料も歌舞伎座などの半額です。
これも松竹の後援があってのことですが、歌舞伎座以外で本格約な歌舞伎、それも古典の掘り起こしや狂言の通しなど実験的な出し物を採算をあまり気にせずに企画されることが多く、大変素晴らしいことです。
小劇場では文楽、落語などの寄席芸能、邦楽、舞踊、民謡など規模に合わせた出し物でにぎわっています。特に文楽は芸の修得が大変で後継者の育成に苦労されていますが、芸を見せる機会が小劇場で時々あることにより励みになっています。
私の年上の友人で、一代で上場建設会社を築いたK氏はゴルフ、その他多趣味の方で、五十を過ぎて長唄を習い始め、それも杵屋勝東冶家元(勝新、富三郎の父君)の直弟子となりました。国立大劇場の大舞台に百歳になった柳橋の長老芸者以下の踊り、大勢のお囃子連中、そして勝東治家元自身も病床より賛助出演して三味線をひかれ、一世一代の道楽を拝見しました。
オーナー社長なればこそですが、古典芸能を支えていたこのような人たちがいなくなり、先が思いやられます。千駄ヶ谷の国立能楽堂では、各流派のお能と狂言が月毎に公演されています。
No 37
東京の祭り
明神さま「平将門」が祭られている深川富岡八幡宮
不景気に関係のない三社さま
五月十七日は浅草三社様の本祭りでした。「宮入り」が終わった夜、この文を書いています。九十八万人の人出があったそうです。浅草は戦前東京一の盛り場でした。明治までは神仏混交で浅草寺と浅草神社は一体で、神社の呼称か三社あったことから三社祭りといわれ、東京では神田祭りとともに最もにぎやかで盛大の祭りです。
氏子町内は四十四町あり、それぞれ自慢の町内神輿(みこし) (一町で何台もある)約百基が神社の境内に本祭りの前日集まり、拍子木の合図で一斉に練りながら帰り、翌日の本社神輿の「宮出し」を持つのです。本社神輿は三基あり、一ノ宮は鳳凰、二ノ宮は粒宝珠…とそれぞれ千貰神輿といわれ、これを担ぐために地元はもちろん、神輿担ぎを生きがいにしている担ぎ手が全国から集まり「ソイヤ、ソイヤ」の掛け声で三台連ねて練り歩き、全町を巡って「宮入り」となります。誠に勇壮で下町っ子が夢中になり、熱を上げるのも、もっともと思います。
東京では三社様と並んで、神田神社(神田明神)の神田祭りが祭りの双璧で、三社様に劣らぬ盛大さでまさに江戸っ子の心意気を示す祭りです。五月十五日と決まっています。祭神とともに崇めている明神様とは千年もの昔、関東に独立政府を打ち立て中央の権力に対抗して戦い、今に至るまで庶民の間に絶大な人気のある「平将門」のことです。
祭りは費用の膨脹、エスカレー卜することを考え、表年と裏年とがあり、今年は裏年でしたが、待ち切れない人たちが町内神輿を担ぎ出していました。神田神社の氏子町は百八町におよびます。
東京では木場の深川富岡八幡(八月十五日)の祭りも有名で、佐川急使の会長が奉納した数億円の豪華絢爛な神輿が繰り出されます。普段はガラスの倉に収まりいつでも見られます。他に江戸城裏鬼門鎮護のため城内に唯一残された神社が山王日杖神社で、今は赤坂界隈の鋲守様として盛大な祭りが秋にあります。
No 38
祭りとお神輿
佐川急便会長から寄進された超豪華な千貫みこし
息抜きに御輿力士をお借りして
不景気な話しか聞かれない今日このごろです。「東京だより」も堅い話ばかりではと考え、時にはこんなこともあるかと少々馬鹿馬鹿しいが、しかし愉快な話を祭りの物語に続き、案内したいと思います。
成田山新勝寺東京別当と高岡八幡宮が隣合わせにあり、その参道が門前仲町通りで伝統ある店が並び、にぎわっています。地下鉄東西線「門前仲町駅」に連なって交通は大変便利になりました。
この地は江戸時代より現代にいたるまでさまざまな歴史を刻んで来ました。元禄のころ、不動さんと一体に高岡八幡宮は商売繁盛の神様として庶民の信仰を集めていました。かの紀伊国屋文左衛門は特に多くの寄進を行い、大川(隅田川)に自力で永代橋を架け、八幡様には社殿はもちろん金に糸目をつけず総金張りの八幡造り、神明造り、春日造りの三基の豪華なお神輿し(みこし)を寄進しました。
この千貫御輿は関東大震災で焼失するまで二百年の間、深川っ子の自慢であり、毎年担ぎ出され盛大な祭りのシンボルでした。その後、これに匹敵する物を寄進できる人がなく、そのうちに昭和の不況、戦争となり、沼和二十年三月十日の大空襲でこの辺は一面焼け野原となりました。沼和天皇が同十八日、高岡八幡の焼け跡に立ち、その惨状をご覧になって戦争終結を決心された所です。
長くお御輿のない祭りが続きましたが、平成三年に佐川急便会長佐川清さんが紀伊国屋に負けないものをと数十億円の御輿を新調、寄進されました。総重量四・五d、屋根の幅一・六b、高さ四b以上、屋根の上の鳳凰の目に七カラットのダイヤモンド、両眼に四カラットニ個をちりばめ、二匹の狛犬の目には三カラットが四つも輝いています。他にもダイヤモンド多数とルビー二千個、屋根は二十四`の純金で葺かれ、目を覆うばかりの豪華さ。三千人の担ぎ手が八月十五日のお祭りに練り歩くのです。深川っ子の誇りと喜びは絶頂に達します。
こんな話もたまには良いでしょう。また富岡八幡様は江戸時代以来、勧進相撲が行われたところで、力士にまつわるものがたくさんあります。
No 39
上野動物園
相変わらず高い人気を得ているパンダ
梅雨空にパンダのあぐら並びおり
上野の山の続きを書こうと久しぶりに出かけました。西洋美術館は工事が終わり、常設展が開かれていました。しかし、他の工事は未完で、わずかに芸大の奏楽堂が完成しているだけでした。そこで月並みですが上野動物園はどうなっているか、訪ねてみました。三十年も前に子供と入園して以来ですが、世界の珍しい動物を見られることは大人といえども楽しいことです。
東京都には上野の分園のような形で、京王線百草園(もぐさえん)に「多摩動物園」と「井の頭動物園」があります。通称上野動物園は恩賜動物園といわれ、明治十五年に農商務省博物館付属として開園したわが国最古の動物園です。同十九年に宮内庁に移管され、大正十三年東京市に御下賜になった経過から、恩賜動物園といわれるようになった歴史があります。
上野では、なんといっても人気の中心は「パンダ」です。オス、メス各一頭ですが、冷暖房完備の家で竹を器用に持ってムシャムシャ食べている姿は理屈抜きで可愛いものです。飼育係の方の話では孟宗竹のほか、煮たさつま芋、ニンジン、筍、砂糖きびの団子などを与えているそうです。
象はオス一頭、メス三頭が飼われています。戦争中、象は他の猛獣と共に殺され、いなくなっていましたが、日本の子供たちの手紙にこたえインドのネール首相が後に首相になったお嬢さんのインデラさんの名前で子供の象一頭が贈られ、大騒ぎをしたことを思い出します。昭和二十六、七年のころのことです、そのインデラさんは数年前亡くなりました。
係員の話では現在上野には哺乳類六十三種五百二十二点、鳥類百九十三種七百四十八点、は虫類八十種二百五十一点、両棲類魚類など七種百二十四点の合計三百四十三種千六百四十五点とのことでした。上野はゴリラ、スマトラ虎など種族の保存を主としています。多摩動物園は放し飼い形式で、上野の数倍の広さです。それにしても、パンダのような動物がどうしてできたかと不思議でなりません。
No 40
お盆のころの話題
数百店が軒を並べてにぎわう浅草の「ほおずき市」
焼くような太陽のもと寺参り
私が育った北見では八月十五日がお盆で、街は一番にぎわい活気のある日でした。特に私の生家は世に言う浄土真宗の門徒で、母などは先祖のことを非常に大事にされ、私も自然そうなり十四日にはお墓参りが決まりでした。
ところが東京のお盆は七月十五日で八月には特別のことはありません。ただし地方から出て来ている人たちは八月の月遅れ盆には一斉に帰郷され、工事現場などは当分休みです。このときは交通機関はどこも満員ですが、都内はがらがらです。七月のお盆にはいまだ私自身しっくりいたしません。
しかし東京のお盆には、それなりにさまざまな行事や伝統のおる催しがあります。十三日の夜、家々では玄関の前で迎え火を焚いて先祖の霊を迎え、十六日の夜には送り火を焚き、霊のお帰りを願うのです。七月十六日京都五山、特に東山の大文字焼は有名ですが、これはお盆の送り火なのです。
箱根の明星が岳にも、十六日には大文字焼が行われ、東京からも大勢の人が見に行きます。これは箱根の強羅別荘地の開発を担当した劇作家北条秀司さんのアイデアで、京都にならい強羅の正面、明星が岳に大文字を燃やしました。大文字焼が見える別荘は今でも値段が高いそうですが、大量の薪を担ぎ上げ、一斉に火をかける作業で人を集めるのに苦労するとのことです。
七月七日は七夕で商店街のアーケードでは七夕飾りが下げられます。お盆を迎える行事にはまず七月九日「入谷の朝顔市」(今年は花が早い)では、行灯立ての鉢を買い、下町の人は毎日眺めて楽しむのです。
九日は浅草観音様の「ほおずき市」、そして翌十日は四万六千日です。この日お参りをすると四万六千日お参りしたと同じ御利益があるといわれ、浅草は大変にぎわいます。十三日は靖国神社のみたま祭の日、迎え火を焚き、先祖の霊を迎える夜です。お盆が済み、梅雨が明けると北見では考えられない暑い暑い土用が来ます。元気を出すため鰻を食べる時です。