No 21
冬の花
ちょうど見ごろの東京・湯島天神の梅
寒のうち桜牡丹も人並みに
北海道で生まれた私などは冬、屋外にいろいろな花が咲いていることなど考えも及びませんでした。今は交通も便利になり、内地に冬旅をされ、さまざまな花に出会うことがあることと思います。北見で冬季間、友達の家にうかがいますと、鉢植えの草花や観葉植物を大切に育てて楽しんでいるのを見て、その豊かな感性に触れうれしくなります。
東京に住むようになり、気がつくと冬でも一年中いろいろな花が咲いているのに驚いたものです。その代表は梅の木でしょう。昔はお花見と言えば梅見のことだったそうで、梅には桜のような華やかさはありませんが、その姿に貴族好みの品格があり、学問の神様・天神様が特に愛したということで、どこの天神様にも梅の木や梅林があります。
東京では湯島天神、亀戸天神などが白梅紅梅で埋まり、香りの中に合格祈念の絵馬がいっぱいです。梅園では水戸の偕楽園、熱海梅園、小田原の曽我梅林、奥多摩青梅界隈には梅林が広がっていて、吉川英治記念館、川合玉堂美術館などは吉野郷梅林のなかです。偕楽園は梅見客のため、隣接しているJR常磐線に仮設ホームができ、臨時に急行列車を停車させています。
さざん花、早咲きの梅は冬の花の代表です。路地の草花では水仙、千両、万両、北海道でもおなじみの福寿草、すみれなどいろいろな花が見られます。
桜は春の染井吉野のような華やかではないが、冬桜などがほぼ一年中咲いています。特に伊豆高原が有名です。東京ドーム隣の後楽園の冬桜は暮れから二月ごろまで咲き誇っています。また鎌倉鶴ヶ丘八幡宮では藁帽子のなか、豪華な冬牡丹の見事さには感心します。
三月になると黄色のれんぎょう、茶人好みの紅白のぼけ、そLて懐かしいこぶし、桃などでゴルフ揚などは花盛りとなります。花々こそは人生で変わらぬ友と言えるのです。
No 22
地下鉄と交通事情
平面リニアモーターを導入した地下鉄12号線
交通が便利になって忙しし
私が上京して半世紀になまりますが、この間、東京の交通システムは予想を超え、大変な変化をとげました。とにかく車社会となり、道路は不十分ながら整備されました。かつて庶民の足の主役として狭い道をチンチンと鐘を鳴らしながら走っていた都電が、四十系統もありましたが、昭和三十九年の東京オリンピックを境に時代遅れとだんだん姿を消し、今では荒川線一本を残すのみです。
代わりに高速の地下鉄が建設され、JRや各私鉄との相乗り入れによって都心と郊外が結ばれ、首都圏の生活範囲は非常に広くなったのです。地下鉄の歴史は今から七十年前、上野-浅草間二・二`、三区間走ったのが始まりで、戦前渋谷まで延びた今の「銀座線」がそれです。戦後三十年に池袋から都心を通り新宿、荻窪までの「丸の内線」ができ、その後都営営団合わせて営業されているのは現在十二系統にもなり、さらに建設が進められています。
いくつかの線は当然交差するわけで、後にできたものほど深い所を通すこととなり、地下四十bに達するところも珍しくないのです。以前、工事は全体を掘り下げていましたが、今はほとんど地上では気がつかないもぐら式のシールド工法によりトンネルが施工されています。第二の山の手線と言われる十二号線は平面リニアモーターで走る最新の地下鉄です。
大変便利になった地下鉄も、なかなか乗りこなせないと言います。しかし、こんな安くて速く、便利なものはありません。東京の道路は時により渋滞が激しく大変です。その点、地下鉄やJRは確実で、東京の地図と地下鉄の系統案内図とで目的場所の近くの駅とその駅のある線を確かめ、近くまで行ってタクシーを拾うのも良い方法です。
地下鉄駅の案内板は良くできていて、各線ごとに決めた色の丸に矢印があり、それに従っていけば目的の乗り場に行けます。案外簡単ですから、上京の折はぜひ利用してみて下さい。
No 23
東京湾のふ頭
船の科学館「洋蹄丸」と遠くに品川ふ頭
ゆりかもめ群れなすそばを「ゆりかもめ」
港といえは横浜や神戸を思い出しますが、東京港はそれに匹敵する規模の港です。大小用途に応じ多くのふ頭があり、毎日たくさんの船舶が出入りし、貨物などの扱い量では横浜、神戸と同じくらいなのです。東京港については、東京だよりの埋め立てシリーズで書くつもりでしたが、シーズンに合わせて書くものが多く、今回取り上げました。
数十個所のふ頭はすべて埋立地にできていて、その構造やバックヤードの施設もそれぞれの用途や目約により違います。東京湾の入り口側、羽田空港隣から順に大井ふ頭(岸壁の長さ約四`)品川ふ頭(同二`)と続き、品川ふ頭は東京湾コンテナ貨物の中心でコンテナ積み下ろし用の巨大なクレーンが林立し、一万dを超える船が何隻も横付けされているさまは壮観です。
このふ頭はコンテナ専用であらゆる物資が扱われ、広いコンテナ置き場と何十棟もの倉庫、高速道路にもつながる道路が整備され、最新の港の機能を完備したふ頭です。その中に日本最大の火力発電所品川、大井発電所があって直接タンカーからタンクに燃料が供給されています。羽田からのモノレールでよく見えます。
JR浜松町の海側の竹芝、日の出ふ頭は伊豆大島や伊豆諸島、小笠原、湾内遊覧などの船が出るところです。また、銀座四丁目から晴海通りを東に二`程の晴海ふ頭は客船ふ頭で、外国軍艦などの表敬訪問にも使われる所です。最近話題になったアメリカ第七艦隊の旗艦ブルーリッジ(一八、三七二d)が接岸し、公開されたところです。
このほか東京湾内には鉄鋼、木材、外貿定期船ふ頭、それに釧路、苫小牧や九州へのフェリーふ頭で元有明ふ頭があります。北見会会員子弟が故郷訪問で乗船したところで、当時大変寂しい場所でしたが、いまは見本市会場東京ピッグサイトも近く、にぎやかなところとなりました。修学旅行などで水上バスにでも乗り、港見学なども良いかも知れません。
No 24
北見の”ゴルキチさん”へ
ゴルフ場の名門「霞が関カントリー倶楽部」
春を待つ心もせわしゴルキチは
北見にはゴルフ好きが大勢います。なにしろ車で十五分も走れば、三カ所もゴルフ揚があるのですから、当然のことです。しかし、ゴルフをやらない人には、誠につまらない話題であることは間違いありません。中には嫌悪の情をあらわにする人さえおります。しかし、今回はそのゴルフ好きを対象に失礼させていただきます。もちろん技術約なことではありません。
東京でゴルフをするには、朝早くから丸一日かかり、相当の費用を必要とするぜいたくな遊び(スポーツ)です。しかし、このスポーツは麻薬に似て一度始めると体でも壊さない限り、まず止めた人はないと思います。それだけ価値と魅力があるスポーツだからです。
今は東京北見会と一体になっていますが、北見会より早く三十一年も前に北見界隈のゴルフ仲間によって「オホーツク会」が結成され、延々と今日まで続いています。この四月二日春爛漫桜の満開に合わせ「日高カントリークラブ」で百二十四回目のコンペを行います。良くも続いているものと感心します。北見の方もお出かけください。しかし、チャーターメンバーは私と時々出席する平田英夫さんだけになりました。ここにも歳月の流れを感じます。
そのほか私は、北海道倶楽部の当時理事長であったフジテレビ社長鹿内信隆さんに頼まれ、昭和三十九年ゴルフ同好会「北星会」を結成し、現在も代表幹事としてお世話をしています。オホーツク会の初めのころには岡村建設の通称金チャンをはじめ、北見からも参加される方も大勢いました。
私は日本一と言われている「霞が関カンツリー倶楽部」、また「相模原ゴルフクラブ」「箱根カントリークラブ」のメンバーで、オホーツク会や北星会でも良く利用しています。北見のゴルキチさん、シーズンオフにでもお出かけください。オホーツク会の幹事は泉宏吉さんです。
No 25
ナインスターと東京の人
函館オーシャンの名捕手だった飯田さん(右)と筆者
少年の夢ナインスター今あらた
子供のころ、私も野球少年でした。近所の遊び仲間と良くグローブやミットを交互に貸し合い、バットなどは丸太を削って作ったものです。特にポールは貴重品で、人数も足りないので三角ベースでした。しかし、それはそれで楽しい思い出です。
昭和十二、三年ころのことです。わが町野付牛には北海道で一、二を争う素晴らしい野球チーム「ナインスター」があるのだと知り、なんとかその練習を見たいものだと思っていました。きっと町の中心のグラウンドに違いないと、今の藤学園の向かいに木造の壊れかけたバックネットがポツンと立っていた原っぱ「一力無尽のグラウンド」 (間違いかも細れません)だろうと勝手に考え、何度か行ってみたが軒駄でした。本紙の記事によると、ナインスターはすでに昭和の初めに解散していたことを知り、幻にあこがれていたのです。
情報なども少ない時代の少年の夢で、プロ野球のないころの最も権威と人気のあったのは黒獅子旗。これを目指す全国実業団野球大会(現都市対抗大会)の道代表は一チーム、常勝最強の「函館オーソャン」と代表をかけ互角に戦っていたのが郷土の誇り「ナインスター」であり、私の頭に焼きついていたのです。
そのナインスターを知っているのは函館オーソャンに在籍し、現在日本ゴルフ協会のティーチング・プロとして東京・新橋にゴルフ教室を開いている飯田鐘三さんです。今も都市対抗で最高のキャッチャーに与えられる久慈賞の久慈さんがポールを頭に受け亡くなったあと、名捕手として鳴らした方です。たまたま私がお世話をしている北海道倶楽部のゴルフ会「北星会」で知り合うことになりました。
飯倒さんからこんな話ををうかがいました。「ナインスターが解散のころ、全通一といわれた名投手今井、名遊撃手岩崎、北中出身の藤原選手らが根室協会に移り、そのため根室は強いチームになった。しかし特別のスポンサーもなく、費用はほとんど自弁で北海道を荒らし回ったナインスターこそ『ノッケ』の誇りでしょう」−。感激も新たにタイムカプセルから飛び出た思いでした。
No 26
竜馬・才谷屋 直寛・北光社
坂本直寛ともゆかりのあるステーキ店「才谷屋」
北光社、土佐の高知も東京で
東京だよりも二十六回になりました、なにしろ八百宇内に一つの事柄をまとめるので、意を尽くせないことも多いのですが、お許しください。
今さら申し上げることでもありませんが、故郷北見は百年前、坂本直寛が創立した土佐高知移民団北光社によって開拓の鍬が振り降ろされました。坂本直寛は明治維新最大の功労者であり、日本を近代国家に変貌させ三十三歳で凶刃に倒れた坂本竜馬が最も愛し、期待もした甥(おい)でした。
竜馬は常ずね「新国家ができても、政府の中に入るつもりは全くない。北海道の開拓、そして海運をおこし、世界を相手に商売をするんだ」と言っていましたが、その志を継いだのが直寛であり、三菱の岩崎弥太郎でした。
竜馬に関する江戸での史跡はほとんど残っていません。十八歳の時、剣の修業に来て北辰一刀流免許皆伝となったお玉池の千葉道場は、今は電気の秋葉原の近くで、竜まはその分家の方で修業し、寝起きをした土佐藩邸も近くでした。
そして現代−。私は数年前、たまたま友人と赤坂一ッ木通りのTBS前に「才谷屋」というステーキ店を見つけました。私の好きな坂本竜馬は郷土であると共に土佐第一の豪商で屋号を「才谷屋」と言ったが、何か関係があるのか興味をそそられました。そこで私が北見出身でおることを話すと、店主の吉田尚人さんは坂本直寛のこと、北光社のことなどを良く存じていて、話が弾んだものです。
後日、もっと詳しく知りたいと連結を取り、北見会の会報などを持ち、吉田さんの話を聞きに出かけたのです。
吉田さんは直寛の長男直道の家に書生として仕えた人で直道は戦争に反対し軽井沢にこもり、戦後鳩山一郎、緒方竹虎らと自由党を結成したが間もなく亡くなった。いま直道の長女寿子さんが健在で、吉田さんが会主を務めて年二回多くの竜馬ファンが集まる「竜馬会」には、いつも出席されるとのことでした。東京では思わぬ所で故郷とつながりがあるものと感慨もひとしおです。
No 27
東京の春だより
江戸城の内堀だった千鳥ヶ淵と田安門の桜
願わくば花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃 西行
東京周辺は今まさに春爛漫、桜は満開です。北見より一カ月余り早いお花見です。東京の桜の名勝は方々にありますが、お花見の対象となる所はまず上野の山でしょう。
夜桜も見られるように照明されていますので、シートなどを敷いた上で酒盛りやカラオケで盛り上がっています。四月入社の新入社員は花見の揚所取りが最初の仕事のようで、良い場所を取るため寝袋持参で何日も前から頑張っているものも見かけます。
しかし、私はそのような花見は好きではありません。私の推薦する一番の桜は、何といっても九段の靖国神社から江戸城の内掘であった千鳥ケ淵、その対岸の土手一帯で、桜の花で盛り上がっているさまは見事という以外言葉がありません。日本一だと思います。時には、名句が書かれた短冊が結ばれていたりします。もちろん酒盛りなどをしている人はいません。
それに小学唱歌「春のうららの隅田川」の墨田公園です。今は桜の見事な公園ですが、昭和二十年三月十日アメリカの国際法を無視し非戦闘員を対象にした無差別爆撃により、一夜にして十万人の方が亡くなり、その遺体を茶毘(だび)に付した跡なのです。今、平和で桜が美しければ美しいだけ、その蛮行は許すことができません。
東京では青山、、谷中墓地のほか、太宰治が入水した玉川上水堤の桜も、そばを五日市街道が走っていますが、排ガスにも負けず何キロも見事な桜並木を見せてくれます。
東京の主な桜は染井吉野で、花だけが先に咲き、花が散ってから葉が出ますので、なかなか綺麗なのです。お花見の度に健康で、また来年もこの至福の春を迎えられるようにと思うのです。
横道にそれますが、一昨年、西行法師終焉の山奥で、大変交通の不便な河内の弘川寺を訪ねたとき、遠目にも全山桜で盛り上がり、それはそれは見事な光景でした。花びらに埋もれた師の小さな塚にお参りして来ました。心に残る思い出です。
No 28
靖国神社にお参りして
二百四十余万柱のみたまを祭る靖国神社の桜
散る桜残る桜も散る桜(なみだ)
靖国神社の例大祭は、境内の桜も散った四月二十一〜二十三日です。
申すまでもなく靖国神社は、明治維新以後の日清、日露、大東亜戦争などで尊い命を国家に捧げ死んでいった多くの軍人をはじめ、軍属の船員、看護婦、ひめゆりの塔で代表される昔の中学、高等女学校の生徒、終戦後にもかかわらず攻め込んできた無法者のソ連兵を前に、最後までその任務を遂行し、自決した樺太真岡の女性電話交換手、その他祖国の悠久を信じ亡くなった方々二百四十余万柱の御霊(みたま)が祭られています。
私は終戦の時、北見中学四年生で十六歳でしたが、同級生の中には志願して海軍の予科練や陸軍の特幹などに死ぬことを前提に出征していきました。そのころは十四歳で応募できる少年飛行兵や戦車兵も、国のためと戦場に勧んで出ていったのです。
例大祭には「靖国で会おう」 「後に続くを信ず」を合い言葉に共に戦い、幸い生き残った戦友たちが所属した隊名を書き、何百も献灯されています。あちこちで年老いた人たちの戦友会の集まりが見られ、大村益次郎の銅像下では、銀座の歌声サロンの歌姫たちが「同期の桜」を歌い奉仕をしています。
例大祭に昔はサーカスなどの見世物小屋も出たそうですが、今はありません。しかし、たくさんの屋台が出て大変にぎやかです。神社の境内におる「遊就館」には、戦車や飛行機などと共に、戦死された人々の遺品や遺書などが展示されています。
再び帰ることのない死地に出撃する特攻隊員、特に学徒出陣の青春もなく、ひたすらに祖国のためにと断ちがたい肉親の情を断ち、死んでいった人々、出撃前日訪ねてきた母と一夜語り合い、わが子の死出を見送った母親の心中はいかばかりであったかと思い、戦時中を知る私は涙があふれるばかりなのです。
これらの尊い人々の御霊により、現在の平和と繁栄があることを決して忘れてはならないことです。
No 29
庭園の事1
全国から名石を集めた清澄庭園=東京・江東区
どれほどの人が成せるかこの庭は
東京には公園が方々にありますが、庭園となるといくつもありません。庭園とは、ある個人または権力者が己の哲学と美意識、そして計り知れない財力をもって創造したものだと考えます。今、私たちが憩いの場として四季折々に、その偉大な事跡を自由にめでることができる幸せを感謝せずにはいられません。
順に挙げますと、元禄の豪商紀伊国屋文左衝門の屋敷跡がその後久世大和守の下屋敷になり、明治に入り岩崎弥太郎が造り上げた深川の「清澄庭園」、五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保が将軍を度々迎え、遊興を楽しんだ本駒込の「六義園(りくぎえん)」、水戸徳川の上屋敷小石川「後楽園」(東京ドームはその一部)、将軍の鴨猟場で明治に皇室の離宮となり、今は一般に開放されている汐入の池で有名な新橋の先「浜離宮」があります。
また、古河財閥の屋敷跡で西洋庭園もある滝野川の「古河庭園」、上大崎のその名も「庭園公園」旧朝香宮邸跡、浜松町の「旧芝離宮恩賜庭園」、それに今は営業に利用されていますが、山県有朋が作庭した目白台の「椿山荘」、芝白金の元久原房之介邸の「八方園」などが東京における庭園といわれるものです。
今後、順次紹介したいと思いますが、私の一番好きなのは清澄庭園です。ここには元禄以来のいろいろな歴史があり、明治になって岩崎弥太郎が三菱の社員の慰安と迎賓のために利用していたものを、のちに東京市に寄付され今日に至っています。泉水池を中心に天下の名石を配した「回遊式林泉庭園」の極致といえます。
ちなみに岩崎は自社の汽船で全国から莫大な量の名石を集めました。主なものだけでも伊豆磯石、伊予の青石、生駒石、真鶴石、加茂の真黒、讃岐備中の御影、京都保津川、それに金と同じ値段といわれる五十`はゆうにある佐渡の赤玉など、誠に見ごたえのある名石ばかりです。東京北見会の第五回総会は園内の大正閣を借り開催したのです。
No 30
庭園の事2
元禄時代に造成された六義園=東京・文京区
美しき庭に身を置き至福かな
前画に続き庭園について書きます。清澄庭園が名石の庭なら、六義園(りくぎえん)は名木の庭と言えましょう。六義園は前に述べましたように、約三百年前の元禄のころ、五代将軍納吉の側用人柳沢吉保が駒込の地三万余坪に、七年の歳月を費やして築造し、たびたび将軍もお成りになった天下の名園です。
中央に広大な池を設けたいわゆる「池泉回遊式築山庭園」で、東京の中とは思えない常山幽谷の感がありました。最近ピルなどが周りに建ち違和感もありますが、吉保自身の文芸趣味思想から「万葉集」や「古今集」にちなみ、園内に八十八景を写し出すという凝りようで、さまざまな築山、滝などに何軒もの茶室、あずま屋を配し、まさに将軍や大名の遊興の場にふさわしい名園なのです。
私が取材に行った三月末に、名物の高さ二十b、幅三十bの大しだれ桜が満開で、それはそれは見事なものでした。松を主体に名木の数々、その中でも北海道にはないと思いますが、花木の王様とも言える直径二十aもある純白の丸い見事な花を付ける「泰山木」が何本もあり、五月末には香り高く咲き誇ることでしょう。
北区滝野川の古河庭園は大正の初期に、古河財閥三代古河虎之助が鹿鴫館など多くの洋風建築を設計した明治・大正時代の名建築家ジョサイア・コンドルに設計を依頼し、丘の高い所に洋館を中心に西洋庭園、下段低地には見事な心字池を中心とした回遊式日本庭園が造られているユニークな庭園です。大正資本主義時代の大金持ちが存在した名残りでしょう。戦後、財産税として国のものとなり、荒れ放題になっていたものが都に管理委託され、多くの浄財により現状に復元されたものです。
この他「後楽園」 「旧芝離宮恩賜公園」など日本文化を代表する庭園を自由に拝観できるのは、誠に幸せなことです。上京された折などぜひ訪ねて欲しいものです。