No 11 江戸の史跡について      



主君と四十七志が眠る東京高輪の泉岳寺


秋に義士の煙に涙して

 私は子供の時から歴史に興味があり好きでした。最近建築家とともに、歴史家とも自認しています。北見にいたころは、大石内蔵助の「忠臣蔵」や「江戸の生い立ち」「明治維新」などを本で読んで知るだけでした。東京に住むようになり、驚くことに忠臣蔵や明治維新等の史跡がそこかしこにあることです。
 江戸城の本丸鉢は「皇居東苑として公開されています。大手門を入ると政(まつりごと)の表、将軍の住居中奥、その先が二千人の女の館大奥がおり、明麿の大火で焼け落ちた高さが六十bもあった天守閣の石垣、それに二の丸、三の丸跡が、高い石垣や堀に守られていた様子を残しています。
 忠臣蔵事件の発端となった浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「松の廊下」跡や「内匠頭切腹の場」は今も残され、田村屋敷跡は新橋の近く、討ち入りのあった本所松阪町(現両国三丁目)の吉良邸は国技館の付近です。間口百b、奥行六十b位の広さがあったようですが、今は小さな公園があるだけです。
 本懐を遂げた大石以下四十七士が雪道を殿の墓所「泉岳寺」に向かって引き揚げ、道筋で追手がいないことを確かめ、初めて休憩をしたという小名木川が大川に合流する所の万年橋(この橋のふもとには俳聖芭蕉の庵跡と蛙の飛び込んだ古池があります)、さらに当時架けられたばかりの水代橋を渡り、今の東海道から泉岳寺にたどり着いたのです。
 主君の仇を討ったあと、四十七士は全員切腹をして果て主君の傍らに眠っています。今も香煙の絶えることはありません。泉岳寺は地下鉄「泉岳寺」からすぐです。私は義のため意地を貫いた敗者の滅びの美学に魅せられます。
 旧幕臣彰義隊の上野戦争、司馬遼太郎の「燃えろ剣」に描かれている新撰組土方歳三の死にざまに共感を覚えます。土方の生家は今も日野市郊外で一族に守られ残っています。来年のNHK大河ドラマは「慶喜」です。上野の山はいろいろ関係がありますので、今昔について近く書くことにしましょう。





No 12 住宅事情と通勤地獄      



小田急沿線の住宅団地(海老名)。首都圏から二時間


我が家より電車の中が多くなり

 北斗高校三十六期の真神博さんは、押しも押されもしないノンフィクション作家の第一人者として活躍されています。「文芸者秋」八月号に、「ネクタイを剥がれた十人のエリート」という題で執筆しています。第一勧業銀行の元頭取以下トップの方々が、総会屋に脅されて数十億の不正融資をした商法違反で、検察に検挙された話です。
 普段はお目にもなかなかかかれない、サラリーマンとしては位人臣を極めた偉い人々ですが、私はそれを書くつもりはありません。逮捕された十人のうち、都内二十三区内に住んでいるのは二人しかなく、あとの方は八王子の奥や千葉の奥に開発された住宅団地に、普通のサラリーマンがローンでようやく建てた住宅と変わりないところであった、ということに注目しています。
 この辺から通勤するには電車で四十分〜五十分、家を出て職場まで一時間二、三十分はかかります。それに座れる人は幸運で、ほとんどの人は立ちっぱなしでぎゅうぎゅう詰めのラッシュ通勤です。北見の方には想像もできないことです。もちろん銀行等の重役さんには迎えの車がありましょうが、時間的にはそんなに変わりません。
 昭和四十年頃までは、一流会社の社長は都内の番町、麻布、高輪、白金、松濤などの高級住宅地で広い敷地の豪邸に住んでいるのが当然でした。日本はある面では誠に平等で、一流大学を出て一流会社に入り、努力と運がよければ重役にも社長にもなれる可能性があります。しかし、今の税制では一億円位の退職金があっても、都内では庭付き一戸建ては無理で、少し贅沢なマンションがせいぜいです。
 戦後、世代交代が進み現在の重役さんはサラリーマンから成り上がった人が多く、住まいは課長ぐらいの時に買ったものなのでしょう。重役になると専用の車、個室、秘書が付き、昼食は一流ホテルに委託された豪華な重役用食堂ででとり、正にサラリーマンの夢なのです。しかし、こと住まいと個人の生活になると、あまりにもアンバランスなのに不思議な思いがします。





No 13 上の野山 今昔1        



別名「塩の運河」とも呼ばれる古名木川


秋風や栄枯盛衰三百年

 来年のNHK大河ドラマは「慶喜」です。上野動物園、国立博物館、東京芸大、それに寛永寺などのある広大な上野公園は、すべてが寛永寺と関係する塔頭やお寺の寺域でした。
 今から約四百年前、豊臣秀吉が天下統一を果たし、最も恐れた家康から三河浜松などの領地を取り上げ、京、大阪から遠い未開の地関八州を与えました。この命に従った家康は居城の地をバックの広い江戸地に定め、城および城下町の建設を始めたのです。そのときの江戸地の状態は、皇居のある麹町台地に太田道灌が建てた廃城があっただけで、前面は海で中州に葦原が一面に繁っており、沼や川をはさんで北に本郷台地、上野台地、南に麻布台地が広がっていました。
 いまだ戦国の世であり、城は守りを中心に考え、その手始めに武田信玄が塩もなくて苦労したことから、塩の確保のため大川(隅田川)から東に四里一直線に運河を掘り、今のデイズニーランドの手前行徳の製塩場と結んだのです。それが小名木川です。今でも江東、深川の幹線運河として利用されています。
 上野の山は城から見て、東北の鬼門に当たります。京都の都市造りに鬼門鎮護のため比叡山延暦寺を建立したのに倣い、東の叡山として、天台宗の東叡山寛永寺を創立しました。
 もともと徳川家は浄土宗で上野と反対方向の芝に増上寺が建てられていました。今の東京プリンスホテル、東京タワーの所です。家康は若いときに、一向一揆に手を焼き、宗教の怖さを身にしみていましたので、信仰の自由を認め自らお手本を示すため、将軍の墓を奇数代は上野の東森寺、偶数代は増上寺に決めたのです。
 上野には初代家康(東照宮)、三代家光、五代綱吉以下代々のお霊屋があります。増上等の基は戦後売却され残っていません。十五代慶善の墓については次回に取り上げます。





No 14 上の野山 今昔2        



上野公園にある彰義隊兵士の「戦士の墓」

何想う将軍塚でない将軍

 徳川幕府体制は二百数十年続きましたが、欧米のアジア植民地制覇の波もようやく日本にも向けられ、藩幕制度では国家としての機能を果たせないと、薩摩や長州が倒幕と統一国家建設に立ち上がりました。
 その矢面に立たされたのが十五代将軍慶喜、自ら大政奉還の決断を下したのです。水戸家に育った彼は勤王の念が強く、錦旗に歯向かうことは賊軍になることと考え、江戸城を出て自らの墓所となる上野寛永寺に恭順謹慎し、天皇の軍と戦うつもりのないことを示しました。寛永寺には、その時過ごした「葵の間」が今も残っています。そのため江戸城は無血開城となり、江戸の町は戦火を免れました。慶喜は江戸を去り、その後三十数年も世俗から離れて暮らしました。
 江戸の治安は極度に悪化し、それを取り締まることと徳川三百年の恩顧に応えようと立ち上がったのが旧幕臣の「彰義隊」で、二千人が上野の山に立てこもったのです。しかし、この討伐を指揮した大村益次郎は二万の大軍で、山方に逃げ道を開けて上野の山を包囲し、谷を隔てた湯島の所からアームストロング砲を並べ一斉砲撃を開始するとともに、今の松坂屋のところにあった寛永寺の黒門から攻め込み激戦が展開されました。一日で彰義隊は敗れ、双方に多くの戦死者が出ました。官軍側はねんごろに弔われましたが、賊軍ということで彰義隊兵士の遺体は放置されたままでした。三輪円通寺の住職仏磨がこれを哀れみ、二百数十人を今の西郷隆盛銅像の所で茶毘(だび)に付したのです。銅像のすぐ後ろに「戦死の墓」が今もあり、円通寺には弾痕生々しい黒門が保存されています。
 さしもの巨大さと華麗さを誇った寛永寺の根本中堂や本坊も燃え尽き、焼け野原となりました。それがのちの上野公園となったのです。慶喜の墓は十五代将軍ですが、お霊屋ではなく隣の谷中霊園の中に一般の人と一緒に葬られています。しかし、今も寛永寺がお務めをしています。





No 15 上の野山 今昔3         



法隆寺宝物館が加わる国立博物館

鬼門やな文化の山と平成は

 今の上野の山は都民の憩いと文化の中心となっています。特に春のお花見のころは大変なにぎわいです。バブルのころは国にも、都にも税金の自然増収が予想以上にあり、芸術、文化施設の建設や修理に対して大盤振舞の観がありました。お陰で上野の山は、もともとほしいと考えていたものが一挙に企画、着手されたようです。今ちょうど建築ラッシュで、それも金に糸目をつけない豪華さはバブルさま、さまです。
 主なものを挙げると「西洋実術館二十一世紀ギャラリー」「国立博物館平成館」「国立博物館法隆寺宝物館」「東京国立文化財研究所」「東京芸術大学奏楽堂」「東京芸術大学美術館」。その他都立美術館の改修増築なども行われています。
 西洋実術館は松方コレクションをフランスから返してもらうために計画したもので、私のおじいさん先生であるフランスのル・コルビジェが基本設計を、日本にいる三人の弟子が実施設計をしたもので、私も少し手伝った思い出の美術館です。
 絵画では印象派の世界的名作が多数展示、保管されています。中でもロダンの彫刻は正に圧巻です。「地獄の門」「考える人」「カレーの市民」これらが横浜に荷揚げされ、パトカーの先導で到着し、梱包が解かれ、数々の名品に接したとき体が震える感動を覚えたことを今も鮮やかに思い出します。来年四月に再開館の予定です。
 国立博物館には国宝や重文が大量に所有、または委証保管されています。企画展の時は見ることができないので、今の建物は常設展専門として、平成館は企画展専門の予定です。また明治の廃仏毀釈の時代に、法隆寺が生き残るため天皇に献納した宝物を、今までは木造の展示飴で毎週晴天の水曜日のみ公開していましたが、法隆寺館ができることで常時公開されるようになりましょう。上野の山は、今新たな歴史を創りつつあります。
 「上野の森美術館」の館長であった北見中の同期、故瀬川昌久君が亡くなり、残念なことでした。





No 16 東京北見会 20周年記念総会



古里から大勢の参加を得て盛り上がった記念総会

何とゆうよきものふるさと仲間たち

 今年最後の東京だよりになりました。この連載を北見市民の皆さんにどう読んでいただいているか、気にしています。「東京だより」の第一回は私ども「東京北見会創立二十周年記念総会、懇親会」の案内で姶まりました。片手落ちにならぬよう結果の報告で、今年の締めくくりにしたいと考えます。
 十月三日、東京で最も人気のある恵比寿ガーデンプレイスのなか、豪華絢爛のウエスティンホテルのスタールームに北見から、また在京各界より大勢のご来賓の出持をいただき、にぎやかなそして心温まる素晴らしい総会、懇親パーティーを二百二十人の出席を得てつつがなく終えることができました。
 会場設営に役員をはじめ、会員有志多数のボランティアがありました。お土産の用意、受け付け準備、福引の用意、故郷の方々の好意によるオホーツクビール、オホーツクコロッケ、芋やとうきびの煮方などシェフとの打ち合わせ、さらには故郷の物産即売所などに皆さん嬉々(きき)として汗を流してくれました。正に手作りの会です。
 東京には北海道のふるさと会が八十程ありますが、そのほとんどが市町村の役所が主体で運営されているのが現実です。しかし、わが北見会は在京人自身が中心で運営されていることを誇りに思っています。
 北見からはお忙しいなか市長、議長、会頭の三巨頭をはじめ、JA三組合長、水元オホーツクビール社長、鈴木ふるさと百年実行委員長、藤沢マルゲン社長、田巻観光協会会長、服部先生、市、道庁の職員の方々、道新東京支社長、各故郷会の方、地元選出の武部、加藤先生はご自身がお出かけいただきました。JAS、JALさんは英人のスチュワーデスを派遣され、無料、半額などの航空券をたくさんいただきました。
 北見会の運動スローガンは「女満別空港にナイトステーを」「空港名をオホーツク女満別に」とし、武部先生にその場で陳情しましたところ、第一については必ず近々実現させることを確約され、早朝便が飛ぶのも間近かと、会員の万雷の拍手がわき上がったことをお伝えして報告といたします。





No 17 歌舞伎について         



十五代片岡仁左衛門の舞台ともなっている歌舞伎座

歌舞伎座に幟(のぼり)はためき春や春

 今年最初の東京だよりは、新春を寿(ことほ)ぐにふさわしい、伝統芸能文化の集大成歌舞伎の世界のことをお伝えします。正月の歌舞伎座は久しぶりに上方歌舞伎のの大物名跡「片岡仁左衛門」。孝夫が十五代を襲名する大舞台ともなって大変なにぎわいです。
 歌舞伎は伝統美、様式美、役者の個性創造美、そして役者以外のワキ役、端役、竹本などの邦楽、大道具、かつら師など、まさに総合芸術の結集といえましょう。幾たびか歌舞伎の危機が言われましたが、松竹をはじめ多くの人に支えられ、時代を越えて素晴らしい古典芸能が生き続けることができたのは「襲名」という制度によると言っても過言でないと思います。
 私は七代菊五郎の父上で人間国宝の故尾上梅吉さんとは家族ぐるみの気を置けないご交誼をいただきました。今の菊之助さんがまだ四、五歳ののころ、お母さまの純子さん、それに梅吉さんと私の家族とが食事をご一緒したとき「お爺ちゃま好き?」と聞きましたら、「好きだけど怖い」と答えられ、いかに厳しい稽古をされているかを知らされたものです。
 親から子に、他人の子供には絶対にできない厳しい稽古と人格の形成、その修行の結果、身についた芸が襲名する名跡にふさわしいと万人が認めたとき、松竹の了解を得て初めて襲名が許され、披露興行が行われるのです。団十郎、菊五郎のような大名跡はそのために何十年と空席のままでした。
 幸いにも私は先代団十郎、そして現団十郎、菊五郎、また松本幸四郎改め白鸚、染五郎改め幸四郎、松の助改め染五郎三代同時襲名披露など絢爛豪華な舞台をはじめ、ほとんど歌舞伎座は毎日見せていただきました。
 孝夫の片岡仁左衛門襲名披露は一〜二月通しで「菅原伝授手習鑑」「熊谷陣屋」そして「助六三浦屋格子先の場」などです。もちろん、主な歌舞伎俳優総出演によるお祝いと本人の挨拶の口上こそ襲名披露の華です。梅吉、菊五郎丈との交遊についてはいずれ書きたいと思います。





No 18 銀ぶら紀行           



有名ブランドが軒を並べる銀座・並木通り

灯ともる頃のいそがしきかな 啄木

 今年も世の中、−向に景気の良い話が聞かれません。心が滅入りますが、新年ですから夢の中で景気の飛び切り良い話題をお送りします。
 東京の銀座はかつて華やかな不夜城であり、高級品を扱う店が不景気知らずの商売をしていたのです。バブル経済崩壊後、一坪一億円以上もしていた銀座の土地はその何分の一となり、家賃も比例して下がったのは当然です。
 それも引き金となったのでしょうか、銀座の中の銀座、薄幸の歌人・石川啄木が通った新聞社のあった「並木通り」には、最近驚くなかれ世界の有名ブランドメーカーの直営店が続々と開店し、盛況を極めて、そこだけは不況などどこ吹くかの様子です。その多くはデパートや一流ホテルにも店を出していますが、しかし本拠が銀座にあってのことです。
 名前をあげますと「グッチ」 「カルチェ」 「ダンヒル」「モンブラン」、毛皮の「エーシーバング」、ブティックの「ウォルフォード」 「セリーヌ」、古くからの「エルメスのサン・モトヤマ」 「ロエペブティック」「クリテッイア」、靴の「バリー」「シャネル」「ヴィトン」、ボディーウェアの「ウォルフォードプティック」「フェンディ」。忘れてはならない「ディオール」。書いていて少々疲れをもよおしました。
 しかし、銀座こそ新宿にも渋谷にもない盛り場の王様です。銀ぶらでショーウインドーを眺め、世の中にこんな素晴らしいものがあるのかと、お金はなくとも幸せを感じます。
 特に銀座には何十軒とギャラリーがあり「日動画廊」「兜屋画廊」は画廊の草分けです。どこのギャラリーでも素晴らしい絵を自由に見られますし、ライオンやミュンヘンなどビール会社直営のビヤホールでは、あまり懐の心配をせずに飲めます。銀座にはそこにしかない大人の世界があります。やはりスマートでシックな、そして歴史の中の「銀ぶら」にこそ素敵な時間と空間があるのです。

※滝山町は今の並木通り六丁目





No 19 長野五輪と札幌五輪      



札幌五輪の役員ユニホームを着て当時を懐かしむ筆者

想い出は石狩湾の冬景色

 いよいよ長野オリンピックの開幕です。私は札幌オリンピックでボブスレーの競技委員でした。私事に片寄った古い話で恐縮ですが、お許し下さい。
 札幌オリンピックは米ソ冷戦の最中に、かつアマチュアリズムを完全に守り通した大会でした。過日、テレビで札幌オリンピック施設の現状が紹介され、手稲山の私たちが詰めたボブスレーゴールハウスは無残な廃屋となっていました。当時コースは直線部分が地面に溝を掘っただけで、雪に水をかけ、大カーブ部分の壁はコンクリートを下地に、氷のブロックを雪水モルタルで張り付け、水をかけて凍らせる手作業でした。そのあとも崩れにまかせ、見るにしのびないありさまです。
 長野はコースの側壁はすべてコンクリートで、その中にパイピングを埋め水を吹き付けるということで、総工費九十億円、維持費年二億円とうかがい、札幌のころを思い起こし感無量です。
 私たちは昭和三十年末ごろから札幌への誘致運動を始め、四十一年開催が正式に決定し、喜びに沸いたものです。開催国は全競技に出場しなければならない決まりがあり、わが国にはポブスレーなどのソリ競技はなく、「お前たちが誘致運動をしたのだから、ボブスレーを何とかしろ」とのお達し。それからは選手の養成、手稲山のコース建設など言葉で表されない苦労がありましたが、故郷でオリンピックを開くのだの一念でした。
 四十七年二月、参加三十五カ国、選手役員千五百人のアジアで初の冬季オリンピックは成功裏に終えることができました。私は数十回札幌に行きましたが、費用はすべて自前で、それは当然と思っていました。今はプロも出場でき、多くの企業も宣伝に利用していますが、札幌ではアルペンの優勝候補に挙げられたオーストリアのカール・シュランツが、メーカーのマークが付いたスキーで他の競技に出ていたことが分かり、失格になったのです。
 新幹線、高速道、素晴らしい競技施設に七十二カ国が参加する長野の成功を心から祈ります。二十六年前、情熱だけで参加した一役貝の思い出話です。





No 20 札響とサントリーホール    



札響が年に一度コンサートを開くサントリーホール


冬空に北も東も札響よ

 市民待望の「北見芸術文化ホール」が晴れてオープン、こけら落としは札幌のコンサートだったと知り、心よりうれしく感無量です。
 私は昭和二十六年、渋谷の東横百貨店増築に際し、九階に戦後最初の劇場「東横ホール」を造る計画、設計に携わりました。東急電鉄社長の五島慶太さんは採算には合わないが、文化のためと劇場を計画されたのです。私どもを信頼され「一切を任す。ただし東京唯一の劇場であるから、映画はもちろん音楽会、歌舞伎、邦楽、新劇まで何でもできる劇場を造ること」と誠に無茶な注文でした。
 そこで小さな花道や回り舞台を設け、爆発的な人気を得ました。幸い、まだ消防法の規制はなく、内装はすべて木材で仕上げ、お陰で素晴らしい音響のホールになりました。その後規制が強化され、木材は一切使用を禁止され、のちのホールの仕上げは石やタイル、金属で、音響的にはひどいものでした。
 しかし、科学は燃えない木材を創ることに成功し、床も壁も天井も、木材で仕上げ日本一のホールが完成しました。それが東京・赤坂のサントリーホールです。長くN響と不仲であった世界の小沢征爾がNHKホールではなく、サントリーホールでなければとの条件にしたのです。以後ここで演奏することは音楽家の夢となりました。
 わが国では交響楽団を創ることは技術的にも、経済的にも至難で、特に地方ではなおのことです。そんな中、札響は団員の努力と支持者の理解により立派な楽田に成長されたのです。札響は年に一度サントリーホールでコンサートを催します。昨年は三月の末「ラフマノフのピアノ協奏曲」、ショスタコーヴィッチ「交響曲第5番」がピアノ・清水和音、指揮・尾高忠明で見事な演奏でした。なにより皆真剣そのもので心打たれました。
 札響の支援者で文学に秀で芸術を愛する文化人で、若くして地元銀行の頭取となり、北海道経済界のエースとして将来を嘱望されていたK氏がその前年急逝されました。惜しみても余りあります。彼の銀行葬に札響は追悼演奏で感謝の意を表したのです。私はサントリーホールで演奏を聞きながら彼をしのび、涙を抑える事ができませんでした。