No 1
東京北見会創立20周年
東京北見会20周年総会が開かれるウエスティンホテル東京
ふるさとはいま東京にあり秋の空
東京北見会は今年20周年を迎えることになりました。北見市出身者や修学、勤務で北見とゆかりがあり、首都圏に在住する人々を中心に、昭和53年5月27日創立した「ふるさと会」です。
記念事業として特別会報、記念会員名簿を発行する予定ですし、区切りの年ということで、記念総会を豪華に、かつリッチに開こうと色々準備を進めています。総会は10月3日(金)午後5時30分受け付け、6時の開会。
会揚はウェスティンホテル東京の、シャンデリア輝く「スタールーム」です。東京で今、一番人気のおるエビスガーデンプレス内(元サッポロビール恵比寿工揚跡)で、東京のホテル新御三家の一つに数えられている最も豪華なホテルです。
過日、北見会幹事がそろって会揚見学でうかがった際、同ホテルの田村宗英社長自ら案内して下さり、オホーツクビールをはじめ、持ち込みは何でも結構、北見コロッケもシェフが腕によりを掛けて揚げ立てを出して下さることになりました。
時間が限られているのは残念ですが、楽しい会にしようと、役員一同色々と頭を絞っているところです。故郷の特産品の販売や、各航空会社提供の無料航空券など空くじなしの福引きを用意し、故郷を同じくする気安さからお話にも花が咲くことでしょう。
エビスガーデンプレスは広大な敷地に、大衆から超高級までのショッピング、レストラン、写真美術館、ビール資料館など、一日いても飽きない楽しい東京の新名所で、JR山手線「恵比寿」駅から長い歩道でつながっています。総会前に時間の取れる方はゆっくりご覧になるのも良いかと存じます。
ふるさと北見の皆様で、首都圏在住の身内の方、知人、友人にぜひ連絡をお取りいただき、総会にお出掛け下さるようご勧誘下されば幸いです。東京北見会事務局は電話:03−3202−4161
No 2
「羊蹄丸」との対面
懐かしい思い出をよみがえさせる「羊蹄丸」
巻雲や動かぬ船(連絡船)よ五十年
私の遠い過去を話題にしたいと思います。昭和22年、青雲の志を抱く17歳の少年が、食料はすべて統制で、食ペるものは一切売っていない中、北見を出て3日半、窓ガラスもないすし詰めの列車から、焼け野原の東京に降り立ったのが50年前の上野の駅でした。
だれかの歌のように、北海道や東北出身者にとって、上野駅はまさにふるさととの接点でした。上野駅の2本の線路を見て、この線路の果てに故郷があると思うと、ふるさと恋しさに胸が熱くなったものです。上野の山は今も、昔もさまざまな暮らしや歴史がいっぱいです。
その頃の青函連絡船は小さな寄せ集めの貨物船で、トイレも満足にない代用船でした。「大雪」「羊蹄」「摩周」などが就航したときは、まるで御殿のように思えたものです。青函トンネルができ、私共の青春の涙と笑いを乗せた連絡船は廃船となってしまいました。
しかし、その尽きない思い出の連絡船「羊蹄丸」は今、新橋から無人電車「ゆりかごめ」に乗り、一レインボーブリッジを渡ってゆくと、フジテレビなどの隣にある「船の科学館」に繋留され、その懐かしい姿に会うことができるのです。レインボーブリッジはライトアップされた美しい吊り橋で、最近はテレビなどで東京のシンボルとして時々写し出されるので、こ存じの方も多いと思います。
船内はすっかり変わり、ゲームやレストラン、連絡船の資料なども展示されてはいますが、昔の面影を知ることは難しい。しかし、時にはあの壊かしい出船のドラを叩きながら、船員が回って来るのが、せめてもの慰めです.
今、東京で最も人気のある場所の一つ、シーサイドゾーンについては盛りだくさんの話題がありますので、追々案内することにしましょう。
あれから50年、東京の焼け跡はコンクリートのビルで埋め尽くされ、首都圏2000万人の人々が働き、食べ、生活する大都会になってしまいました。
No 3
ゴミによる土地造成
お台場海浜公園からレインボーブリッジを望む
塵も積もれば土地となる
手元に明治11年作成の東京地図があります。東京湾の奥は凸凹もなく海岸線が続き、品川の沖合に点々と7個の島があります。お台場ー。
お台場はペリー率いる4隻のアメリカ艦隊が開国を追ってきた際、「大平の眠りを覚ます蒸気船たった4杯で夜も眠れず」と幕府は慌てて海防、特に江戸を守るべく、当時最先端を行く科学者で蘭学者の伊豆の代官、江川太郎左衛門に命じ、砲台9基を1年半の驚くべき速さで建設したところです。
江戸の中心から7`先で、当時の大砲能力では届かない距離でした.大きな角材で海中深く基礎を造り、その上に伊豆から切り出した石を精巧に切りそろえて石垣が築造されました。今見てもなかなかの出来栄えです。備え付ける大砲鋳造のため、伊豆韮山の今も子孫が住んでいる代官屋敷の近くに、鉄の溶鉱炉「反射炉」が建設され、現在も名跡として観光地になっています。
お台揚の位置は現在のレインボーブリッジのところで、第3台場と第6台揚だけが残っています。今は「お台場海浜公園」として渚もあり、若者たちに最も人気のある東京のシーサイドゾーンになっています。
隣の「羊蹄丸」が繋留され、船の科学館がある13号埋立地は臨海副都心の中心で、ここに15万人の居住と5万人の職揚ができる計画です。既に道路の下には上下水道、電気、通信、ゴミ空気搬送などの共同溝が完備し、超近代都市のインフラが完成しています。
建設記念に「世界都市博」を開催する予定でしたが、政争の具となり、すべての企画がご破算になったのはご承知と思います。
フジテレビ、夢の島東京体育館、有明コロシアム、有明埠頭、新木場、若州ゴルフ場、東京国際展示場(東京ビッグサイト)・・・。ゴミによって出来た広大なシーサイドゾーンを次回から案内することにします。
No 4
芸術の秋たけなわ
ゴッホ晩年の傑作「
鳥の群れ飛ぶ麦畑
」
この一枚家何百軒秋ふかし(けちですね)
例年のことですが、秋はまた芸術の季節です。これから十一月にかけて、上野の東京都立実術館では一般公募の展覧会ラッシュです。二料会展、院展、一水会展、一陽展、主体展、新制作展、ニ紀展、独立展、日本版画会展、日本表現派展、日輝展、東京展、一線展、新協展、創展、一線展、元陽展と、十七の展覧会で彩られます。
当然いくつかの会は会期が重なり、さしもに広大な柔術館も床から天井まで壁面は絵で埋め尽くされています。何か、傑作の絵はかわいそうな気もしますが、いかに多くの画家や素人の絵画愛好家が活動しているかを知り、作品群を鑑賞するのは素晴らしいことと感じます。
いま都立美術館でメーンの展示は「冷泉家の至宝展です。同時開催で大変なにぎわいを呈しています。都立美術館以外でもこれに何倍もの展覧会が開かれ、まさに爛漫の美術の秋です。
ゴッホの「ひまわり」がある新宿都心の安田火災東郷清児美術館の「ゴッホと四季」展には、ゴッホ晩年の最高傑作「鳥の群れ飛ぶ麦畑などがオランダのゴッホ美術館から出品されています。日本橋三越の芸大百年記念卒業制作展、その他国立近代美術館、日本美術の五島美術館、畠山、山種、根津、出光、大倉集古館、都立現代美術館など数えきれないありさまです。
絵画以外のさまざまな展示会も開かれ、まさに芸術文化の季節です。その中で東京駅八重洲口から二百bのブリジストン美術館では、良く知られているピカソ、マチス、ブラック、モネ、ルノアール、ゴッホ、セザンヌ、ルソー、青木繁、佐伯祐三、藤島武二など石橋正二郎氏自ら収集された質の高い名画が所蔵され、その割には混んでいませんので上京された折など本物に接して名画の良さを堪能してみてはと思います。時々展示替えをしますので何度行っても良いところです。
No 5
新木場あたり
大量の丸太が浮かぶ新木場の貯木場
貯水池の縁に揺れてる秋桜(コスモス)
北見地方は一時、木材王国でした。深川の木場には国内のみならず、世界中からさまざまな原木や加工品が集められ、東京の建築などの需要を賄ってきました。その中には留辺蘂や津別の材木店もあったのです。
そもそも木揚の歴史は古く、元禄のころ湿地帯であった所に掘割を造り、掘り上げた泥と江戸から出たゴミによってつくられたのが始まりです。当時としては破天荒の規模で、その輸送手段は掘割による水運が主で三百年後のつい最近まで、ほとんどそのまま利用されていました。
元禄の豪商紀伊国屋文左衛門のころから丸太は筏(いかだ)に組まれて運ばれてきたもので、最近でも船に積んできた丸太は沖で海に落とし、筏にして木揚先の掘割に浮かべていました。
なにぶん元禄のころと現代とでは木材の需要量は問題にならず、そこで多くの店はよそに加工揚や倉庫を持っていましたが、商売の本拠は木場でなければならず、木場先の掘割には依然として原木の丸太か大量に浮かべられていました。
これは丸太の油分を抜き、ひぴ割れを防ぐのに格好の方法でもあります。輸送手段がトラックになり、道路の狭いことはいかんともできない障害となっていたところに、昭和三十四年に名古屋を襲った伊勢湾台風によって、港に浮かべていた大量の丸太が高潮のため市街地に流れ込み大被害を与えました。
東京でも同様の危険を感じ、これを契機に数`沖の埋め立て造成地に大移動してできたのが「新木場」であり、安全策を講じた広大な貯木揚を囲んで何百軒もの木材店や加工場が整然と並んでいます。
もちろん道路は広く働く人の住居や商店、憩いの公園などの完備した街区が三ブロック完成し、交通はJR京葉線と地下鉄有楽町線「新木場駅」が開通して陸海とも大変便利な所となりました。外材でしょうか、直径一b以上もある丸太が大量に浮かんでいる様は正に壮観といえます。
No 6
夢の島スポーツ施設
夢の島体育館とゴミ焼却施設(右手)
秋空も海の彼方か埋立地
スポーツ施設は広い敷地を必要とします。都内では、広い用地の入手はもう不可能です。そこで埋立地には、都民が自分で楽しむスポーツ施設が数多くできています。
ゴミ埋立地の宿命として地中からメタンガスが噴出してくるので防火対策が大切ですが、その中心になる施設が夢の島運動体育施設であり、若州ゴルフリンクス、有明コロシアムです。夢の島には大規模なゴミ焼却場かあって、その余熱を利用し体育館や熱帯植物園などのエネルギー源としています。
夢の島体育館はすべての屋内競技と屋内プール、それに屋外スポーツの多角的運動公園であり、この体育館の没計者は私の師である故板倉準三先生の事務所を引き継いだ同僚で、これにより建築界最高の賞、建築学会賞を受賞しました。
屋外には四百bトラックの陸上競技揚をはじめ、野球揚が十一面、サッカー揚、少年のための野球場五面、それにシーサイドでおることでクルーザーやヨットを数百艇が繋留できるマリーナなどからなる一大スポーツゾーンを形成しています。
若州ゴルフリンクスは岡本綾子のコース設計・監修による十八ホールの本格的ゴルフ揚で、毎年女子プロの競技が開催されているのでテレビでお馴染みかと思います。二十三区内唯一のゴルフ揚で、都営ゆえ料金も安く、申し込みは抽選とのことですが、いつでも混んでいるようです。
次に有明コロシアムですが、一万五千人収容の室内メーンコートの他に三十面の屋外コートがあり、メーンコートでは毎年、テニス界の女王・グラフや日本の伊達、沢松、松岡ら世界の強豪が活躍する大会の会場です。このほか、あちこちにおる公園の中には野球場やテニスコートが多数散在して都民に利用されています。
また、ゴルフ揚隣の若州公園は埋立地では一番広い公園で、シーサイドのキャンプ揚として都民に親しまれています。どれもこれもゴミ埋立地のおかげですが、次回は埋立地の産業について触れて見たいと思います。
No 7
築地市場の今昔
漁船も横付けできる築地卸売り市場
ありがたや鯛や平目もいながらに
現今、かつて考えられない程豊かな食生活が、一千万都民に毎日提供されています。国内はもとより、全世界から集まってきたあらゆる豊富な食材によればこそです。これらを集荷、保存冷蔵し需要先や家庭に配分される巨大な市場と運送組織が、実に見事にできあがっていることに感心させられます。日本一の生産量を誇る北見玉ネギやジャガイモも、当然その中に組み入れられているのです。埠頭埋立地には「ホクレン」をはじめ、用途に応じた倉庫群が軒を並べています。北海道の海産物も冷凍コンテナなどで陸路、海路そして空路から市場に運ばれて来るようになりました。ごくニ、三十年前までは冷蔵施設も少なく、そのころのことを考えますと大変な進歩です。
鮮魚、海産物は築地市場が主ですが、関東大震災以前は江戸時代から続く日本橋際の魚河岸で、一心太助が天秤棒で江戸前の魚を特別の屋敷に売り歩くそのままでした。庶民が魚をロにすることはまれで、たまに新巻のような塩造ものか、干物がせいぜいでした。築地に市湯が移り、漁船が横付けされ、鉄道の氷による冷蔵貨車が場内に入るようにはなりましたが、冷凍技術も低く、かつ各家庭に冷蔵庫もまだまだないころであったことを思い出します。
生の魚をいただくことは大変ぜいたくなことで、すしなどもまさに江戸前の魚に限られていたのです。今日のように北海道をはじめ全世界からのすしだねをいながらに食べられることのありがたさ、幸せに感謝するしだいです。冷凍保存技術の進歩と宅急便をはじめトラックによる運送などは、まさに食生活の革命と言っても過言でないでしょう。
昭和四十年ころまでは東京の交通は路面電車で、築地市場から貨物用都電が小売り魚屋への配達をしていました。よくすし屋さんや板前さんが河岸に仕入れに行くと言いますが、それは「築地場外市場」のことで、魚から卵焼きまでおらゆる食材が種類ごと、品質ごとに三百軒も店を張っています。
No 8
そ菜市場と流通
トラック輸送で大量に入荷する淀橋青果市場
キャベツ嬬恋 玉葱北見
北見の玉ネギ、ジャガイモなどは東京人の台所にとってなくてはならない野菜です。大型のトラック輸送がまだなかったニ、三十年前までは、近郊の農家が直接大八車やリヤカーで野菜を市湯に運んで来ました。野菜によっては新鮮さを保つため、毎日出荷し処分しなければならないものが多いので、市揚も方々にありました。
そのころは農地の宅地転換は認められない事情もあって今では都心といっても良いようなところにも野菜畑がたくさん見られました。そ菜市場のことを「やっちゃば」と呼んでいます。
都心に一番近い市場は秋葉原の「神田市場」です。都心ということで値段が高く売れたらしく、朝早く車を引いて来ても採算に合ったのでしょう。大変にぎわっていました。その他、新宿の「淀橋」「練馬」「足立」「杉並」などの市揚は今も健在です。
時代が変わり、産地別単種類の大量生産、そしてトラック輸送が主になって、つい十数年前に見られた農家の人のリヤカー姿はなくなりました。私の住まいの近くには掟橋市場がありますが、夜間には近県はもちろん、北海道や九州ナンバーの巨大なトラックが何十台と入ってきます。朝はセリが終わり、八百屋さんが小型トラックにいろいろな野菜を満載して出て行きます。
狭くなった神田市場は高速道やふ頭が周りにある埋立地に移転し「大田市揚」となりました。青果以外の水産物も扱い、その広さは後楽園球場(現・東京ドーム)の十二倍もあり、隣にできた「花き市場」とともに近代科学を駆使した最新の一大卸売市場です。都心でも庭のある家では家庭によって葉物などを植えています。なかにはマンションのパルコンで作っているのも見ます。
特筆したいのは、戦後何十`もの野菜などを背負って、おなじみの家に売りに来た世にいう担ぎ屋のおばさんは少なくはなりましたが、今も健在で、八百屋さんとは違った新野な野菜や果物を車で直接届けて下さる貴重な人たちです。
No 9
歴史を食べ歩く
歴史を感じさせるたたずまいの「藪麦藁」
冬近し鮟鱇(あんこう)鳥すきまたうまし
時には少し軟らかい話題をと考え、東京の食べ物屋について触れてみたいと思います。私は「鬼平犯科帳」の故地波正太郎さんのお宅を設計したことで、時々先生に食事をごちそうになりました。先生はご存知のように日本一の食通と言われた方で、食ペ物や料理に関する著書もたくさん書かれています。
「辻留」「胡蝶」「金田中」「吉兆」「美濃吉」など、名の通った料亭の懐石等に精通されていたのは当然ですが、先生らしく庶民の食べ物屋さんも心から好きでした。先生が「週刊朝日」に連載され、後に単行本にもなった「食卓の情景」でそのような食べ物屋さんがいろいろ紹介されています。
私はそれらのお店にはほとんど行ってみましたが、美味しいところ、まあまあというところもあり、それぞれの好みで一概に、うまい、まずいはいえないと思います。先生の本の中にも出ていて、そのうち何軒かはもともと私も良く知っている店があります。
神田須田町の裏「交通博物館」の脇で戦災に焼け残った一角に、昔なからの風情を保っている店が十軒くらい商売をしています。振り分け荷物の旅人が現れてもおかしくないような感じで、まさにチャキチャキの江戸っ子の神田です。良くも焼け残ったものと感心するとともに、昔ながらの味とサービスを保っています。
まず、そばでは創業百五十年の「藪蕎麦」。池波先生は藪より、やはり、そば屋の「まつや」のほうによく行かれていました。鳥すきの「ぼたん」は私も良く行く店です。独特の角火鉢七輪に、びん長の炭火で煮る実にうまい鳥すきです。その隣に天保元年からの老舗であんこう鍋の「いせ源」、あわぜんざいの甘味屋「竹むら」、先々代が東大招へい教授ケーベル邸のコックだったという素朴な洋食屋「松栄亭」のロールキャベツ、かき揚げはまさに絶品です。
東京のど真ん中百b四万くらいの中に明治、大正の面影と昧が残っているのが不思議みたいなところです。交通博物館を目標に行けば迷うことはありません。東京の隠れた名所です。
No 10
道場六三郎さんのこと
「ろくさん亭」のある第三ソワレドビル
鉄人のふぐを食べたや冷える夜に
食べ物屋のことを書きます。もう時効になって許されると思いますので、私の竹馬の友、炭谷純君(元北見市企画部長)のことも交えての話をー。彼は良く上京して来て北見のさまざまなことを相談したり、ゴルフも良く一緒しました。
その中で夜間診療所を作りたいが、資金、派遣医師のことなどいろいろ問題があるから、力を貸してくれということで、資金は「自転車振興会」が出してくれることになりました。派遣医師は札幌医大から東京女子医大に変わられた和田寿郎先生のところにお願いすることになり、炭谷君も以前から存じおげていたが、私もそのころ先生を北梅道倶楽部に推薦したりして良く知っている仲でした。
あるとき炭谷君は「和田先生と食事することになったが、一人では心細いので私も一緒してほしい」と、アメリカンクラブにうかがいました。そこで食事をするものと思っていましたら、突然「辰野さんの知っているところに行こう」ということになりました。
とっさのことで、どこが良いのか。ロの肥えた人でもあるし、奥様もご一緒です。そうだ、私の古い友人の道場六三郎さんが銀座に店を出した「ろくさん亭」にしよう。さっそく案内したところ、ふぐがよいというので、ふぐコースを四人でいただきました。
どうせ北見市が払うのだから、よいだろうと私もふぐを堪能し、和田先生も「こんなうまいふぐは初めて」と喜んで下さり、面目をほどこしたわけです。
炭谷君がレジに支払いに行ってきて、言うことには「先生(私)からいただくからと受け取ってくれないんだ」。結局、あとで請求書が来て、私が支払ったのも思い出です。世にいう一見(いちげん)さんだからです。
最近、道湯さんはテレビで「料理の鉄人」になり、大活躍されていることはご存じの通りです。道場さんはあらゆる面で天オの努力家で、ゴルフもシングルの腕前です。しかし、プレーを終えるとすぐ帰り、どんな時でも板場に出ていました。車は赤いフェラーリを乗り回し、もてもてです。最近は予約で一杯とお聞きし、店に行くことも遠慮ししています。「ろくさん亭」は銀座通りの新橋に近い銀座8-8-7第三ソワレドビル9Fです。