No0 「東京だより」 かきしるべ 
                         平成16年4月 辰野 清隆

 「東京便り」は、私の故郷北海道北見市で大正4年創刊された由緒
ある郷土紙「北見新聞」の要請により、平成9年9月9日より翌年12月
まで一年有余 毎週水曜日掲載したものの切り抜きを収録したもので
す。これはあくまで東京に住む私が、東京の日常生活や行事、又珍し
い出来事、それに私の身辺事情等を、故郷の人々に紹介
したもので、
何ぶんにも一回800宇内とのことで、意を尽くせ無いことも多々あり
ました。写真の殆どは私が現地で撮ったり又所蔵していたもです。60
回分我慢して読んでいただければ有り難く私の生き様の一部を知って
貰えるかと存じます。昭和21年北見中学(環北見北斗高校)を卒業し
翌22年戦後の大混乱のなか正に命懸けで上京しました。ときに17歳、
食べるものは一切配給で常に空腹に悩まされながら、建築家を目指し
て東京工業大学専修科建築科を昭和25年卒業、現代建築の巨匠、ル・
コルビゼエに学び、13年パリー万国博日本館により、グランプリを受
賞し日本における世界的建築家、坂倉準三先生の事務所に入所を許さ
れ師事しました。お陰で我が国における最先端の有名建築の企画設計
に携わる機会に恵まれその間政財界を始め多くの超一流の方々のご交
誼を頂きました
 25年戦後最初の懸賞設計「神奈川県立鎌倉近代美術館」に当選、以
後坂倉先生の下に五島慶太さんによる戦後初の劇場建築「渋谷東横ホ
ール」「東急文化会館」「横浜シルクセンター懸賞設計」「上野西洋
美術館」市村清さんの「札幌ホテル三愛」その他戦後の代表的な建築
設計業務に携らせて頂きました。特に私が主として担当した、日本商
工会議所会頭、後に政界で外相などを歴任された、芝白金、「藤山愛
一郎邸」は住宅建築とし比類無き最高のもので、私の20代のことです。
昭和36年先生の許しを項き独立、「辰野清隆建築事務所」を創立、同
時に異例の若さで日本建築家協会会員に推薦されました。
 
★以後の作品を列記します。       
 日本発器厚生会館(2500人食堂その他スポーツ施設)
 浜松市産業展示館
 ホテル蔵王(懸賞設計)
 道立北見スポーツセンター
 横浜市大医学部付属病院、看護寄宿舎、研究棟
  (アメリカ式医学日本最初の近代病院、1000床当時日本最大病院)
 高萩カントリークラブハウス
 浜北総合病院(300床)
 浜松汚水処理場
 オフィスビル18棟
 30000平米店舗始め店舗多数
 住宅「作家 池波正太郎邸」「陶芸家人間国宝 加藤土師萌邸」
  他数十戸
 マンション、茶室、等都市・地域計画多数

★建築家としての誇り 
 役人、金融OB等はもちろん、営業担当者を雇わず 私の仕事に
 賛同したオーナーから直接設計等を依頼されたこと

★社会活動
 北海道倶楽部31歳入会、理事(役員最古)
  その間、理事長フジテレビ社長鹿内信隆氏により札幌オリンピッ
  ク役員に指名され、日本ボブスレー連盟設立、大会では競技委員
  となる。町村金五知事の要請により北海道勤労青少年センター設
  立役員として数千人の中卒集団就職者の世話をする。倶楽部では
  ゴルフ等親睦部会長として40年150回になる(町村金五先生83歳、
  先生最後のゴルフに同伴した)倶楽部での活動の詳細は拙書「半
  世紀を越えて」参照。
 東京北見会設立現会長 
 オホーツク圏東京ふるさと会連合会会長 
 在京北海道人ユネスコ協会設立、設立総会議長、副会長
 (会がユネスコの精神と離れ商売の場としたため脱会)
 北海道観光産業振興会理事

★知己を頂いた方々
 本文中に出ている方
  人間国宝歌舞伎 尾上梅幸、浪越徳次郎、綿貫民輔、大町北造、
  秀山会の人々、池波正太郎、和田寿郎、道場六三郎、藤山愛一郎、 
  藤山一郎、デック・ミネ、山田直念(国際オリンピック応擾団長)
 文外の方 
  中川一郎、田中角栄、歴代北海道知事、中山正男、ヤマハ社長
  川上瀬一、ダン・池田、他友人多数。
                           (敬称略)